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新・寝台列車論 特急あさかぜ、誕生

本格的な九州特急誕生

特急あさかぜは、東海道線全線電化の昭和31年の改正で、誕生しました。

弊サイト、国鉄があった時代を参照しますと下記のように書かれています。
最後まで残った、米原~京都間が電化されたことで、東海道線は全線電化を果たせました。
これにより、それまで、関西と関東で塗色に差異がありましたが、統一されることとなり、モハ52流電からの流れをくむツートンカラーは117系登場までしばし見ることができなくなりました。

白紙改正実施 11/19

特急あさかぜは、東海道線全線電化の昭和31年の改正で、誕生しました。 弊サイト、国鉄があった時代を参照しますと下記のように書かれています。 最後まで残った、米原~京都間が電化されたことで、東海道線は全線電化を果たせました。 これにより、それまで、関西と関東で塗色に差異がありましたが、統一されることとなり、モハ52流電からの流れをくむツートンカラーは117系登場までしばし見ることができなくなりました。 白紙改正実施 11/19 東海道線全線電化完成。特急、急行列車及び長距離通勤電車の増発、速度向上(戦前の昭和16年の水準に戻る)  なお、このときから、「つばめ」・「はと」は、全区間電気機関車による索引となり、所要時間も7時間30分となった。このときに機関車及び客車が緑黄色(通称青大将色)に塗装され話題となった。 大津市逢坂小学校において盛大な祝賀式が行われ、新装の特急「つばめ号」の出発式が、東京駅においては総裁出席のもとに行われ、東京、大阪で電化完成記念展、さらに記念切手、記念たばこ、記念乗車券の発売等と多彩な祝賀記念行事がくりひろげられた 東海道・山陽・九州線 東京~博多間特急「あさかぜ」(2、3等寝台車、食堂車付 所要17時間25分) 以下、略 新設された、「特急あさかぜ」は、所要時間、17時間25分(表定速度68.5km/h)であり、従来の普通急行「筑紫」が24時間56分かかっていたことを比べると、7時間31分も短縮されることとなりました。

東海道・山陽・九州線 東京~博多間特急「あさかぜ」(2、3等寝台車、食堂車付 所要17時間25分)
以下、略
新設された、「特急あさかぜ」は、所要時間、17時間25分(表定速度68.5km/h)であり、従来の普通急行「筑紫」が24時間56分かかっていたことを比べると、7時間31分も短縮されることとなりました。

大阪を無視した列車ダイヤ


なにゆえ、これだけ短縮できたかと言いますと、大阪を無視したダイヤを設定できたところが大きかったと言われています。
すなわち、それまでの列車は、東京~大阪間に日着させるダイヤとすることで、山陽区間でゆっくり走って時間を調整するダイヤであったためでした。
新設の特急「あさかぜ」は、大阪の到着時刻を2時頃と言った非常識的なダイヤとしたため大鉄局が反対したと言われていますが、京都~熊本間の臨時列車、天草の定期列車化と、急行玄海を京都~長崎(大村線経由)にすることで、関西からの乗車機会を確保することで決着することとなり、大鉄局は結果的に対面を捨てて実利を得ることとなりました。
キャプチャ

昭和32年1月、交通技術ダイヤ改正余話から引用


寄せ集めの車両たち


このときは、「あさかぜ」は固定編成の客車ではなく、又寝台専用列車ではありませんでした。
大阪を無視したダイヤが成立するのか非常に危ぶまれましたが、実際には大好評で、運転開始から2・3ヶ月ほど後には、臨時列車として要望されることとなり、福山駅に給水設備を設けて補水可能とするとともに、広島~京都間をC62形式限定使用として、定数を400t→460tにアップすることで、昭和32年3月からは、全区間でナハ1両増結、広島~東京間でナハネとナハの2両を増結、混雑緩和を図ったとされています。
増結後の編成は、オハニ36+マロネ2両+スロ60+マシ+ナハネ10(4両)+ナハ10(4両)の13両で460tギリギリの定数としたそうです。

これほどに人気を博した背景には、九州方面に向かうのに、東京を夕刻発つことで、翌午前中に到着できる所に魅力があったと言えます。
これは、現在でも同じではないでしょうか、夜行列車の魅力というのは、夜間の非有効時間帯に移動することができるというメリットであり、それ故に夜行バスが成り立っているわけです。
飛行機の輸送が殆どない時代であればこそ、国鉄のこうした長距離輸送は非常に魅力的なものであったと言えます。

ただ、昭和31年時点でも、座席車が5両(2等車1両、3等車4両)が連結されていることにも注目していただきたいと思います。
当時の経済水準では、寝台車は高価な乗り物であったということには注意していただこうと思います。
未だ未だ当時の経済水準では、オール寝台列車化を目指すのは未だハードルが高かったのです。
20系誕生までいきたかったのですが、長くなりそうなので次回にさせていただきます。
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新・寝台列車論 戦後の夜行列車、銀河誕生 第4話 

終戦後に復活した、名士列車

昭和24年9月のダイヤ改正で誕生したようです。
このとき三往復の夜行列車が、東京~大阪間に誕生していますが、そのうち、15・16列車は戦前の17・18列車を彷彿させる、1・2等のみの6両編成であり、銀河の愛称が与えられ、列車の最後尾には、銀河のテールサインまで掲げられていたそうです。
銀河
昭和24年9月15日の時刻改正時の編成
銀河2
運転開始当初最後尾に掲げられたと言われる幻の行灯式テールサイン、
(鉄道ジャーナル昭和49年7月号から引用)
このときに連結された寝台車がマイネ40でした。

マイネ40はどんな寝台車?

マイネ40が誕生したのは、昭和23年なのですが、この車両の誕生までの経緯は色々あったようで、当初、GHQが昭和21年に寝台車を40両作れと言って指示したのが始まりだそうです、その後命令の撤回と再開が繰り返され、車両会社ではスローダウンしながら作業したものの昭和22年には22両が出来上がってしまい、外国人観光客向けの車両とし、余裕があれば日本人も乗車できる車両という名目で、やっとGHQから購入許可が下り他という経緯があったそうです。
日本人も乗車できるようにと制作した、・・・といった記述をしている資料もあるようですが、星氏の回想によれば、GHQ内での意見統一が出来ていなかったことが一番の原因と言えそうです。
車両の特長は、三部屋を区分室(2段式寝台個室)とし、中間に喫煙室を設けて、後半分は、開放式寝台(プルマン式)と呼ばれる車両で、空気調和装置(いわゆるクーラー)を夏場は設置することとされていました。(オフシーズンは、空気調和装置を外すことで、自重の軽減・動力費の節減)等、を図っていました。
現車は、JR東海のリニア館に復元されたマイネ40(マイネ40-7)が保存されていますので、興味のある方はのぞいてみてはいかがでしょうか?
img031.jpg
マイネ40外観
img029.jpg
区分室室内、製造当初は外国人観光客向けということで、カーテンに西陣織を充てるなどその豪華さは目を見張るものがあったそうです。
2枚とも、回想の旅客車から引用


銀河は3等車が連結された普通の列車に

しかし、この計画は上手くいきませんでした。
連日の空気輸送に、さすがに運輸省(当時は国鉄は誕生していません)としても、是正を図る必要があるとして、この豪華編成は、改正から9日後、9月24日からは、1等寝台車2両、2等座席車3両、3等車を8両+荷物車の1・2・3等急行となり、同時期に誕生した13・14列車や17・18列車と遜色ない編成となってしまいました。
下図は、昭和25年10月の時刻表(復刻版)から引用したものです。
イネ・・・1等寝台車(マイネ40)
ロネ・・・2等寝台車(マロネ39)
ロ・・・・2等座席車(スロ60)(うち1両は並ロと呼ばれた車両のようです)
ハ・・・・3等座席車
と言った按配でした。
銀河4

マロネ39に関しては、下記も参考にご覧ください。
国鉄旅客輸送今昔 87 1等寝台車があった頃 C寝台という選択
ちなみに、銀河以外の11・15列車(下りのみで表示)等に愛称が付けられるのは、昭和25年11月からでした。
銀河3
同じく、昭和25年10月時刻表の抜粋
11列車の1時間後、15列車の2時間前に出発、翌朝の7:32に大阪駅に到着する理想的なダイヤでした。

名門の誉れ、急行銀河

「銀河」以外は、列車の愛称名がないことに注目してください、急行列車にも愛称が付けられるようになるのは、昭和25年11月からであり、10月の改正には間に合いませんでした。

当時の国鉄における夜行列車(寝台列車は殆ど誕生していない)の愛称は気象や天文現象などを、昼行急行には、旧国名等という方向性が示され、11・12列車は明星、15・16列車は彗星の愛称が設けられました。
到着が比較的早い、11列車は、「宵の明星」と言う意味合いで、明星の愛称が、更に深更の時間帯を走る15列車には「彗星」という愛称を与えたのは列車の性格からしても上手く表現されていたように思われます。
なお、編成に関してはこの後、彗星と銀河は設備の面で、良き競争者となりサービス合戦を行うことになるのですが、直接寝台車論のお話からは外れますので割愛させていただきます。
なお、詳細は別のblogでお話をさせていただきます。
こうして、昭和25年以降、東海道区間には三往復の夜行列車が走ることとなりました。
ちなみに、昼行列車は、東京~大阪間は特急「つばめ・はと」の他は、熊本行き急行・鹿児島行急行、長崎行き急行が運転されており、これらの列車が、東海同区間における昼行列車として機能していました。
img030.jpg
昼間の列車時刻 昭和25年10月時刻表(復刻版から引用)

ここで注目されるべきは、特急列車以外の昼行列車は全て、九州直通列車であると言うこと、また、夜間帯にあっては、11・13・15列車以外にも、多くの37・39・201列車と三本の列車が集中していることに注目してください。

当時の夜行列車は、時間を有効に使うために必要な列車

当時は、飛行機も現在と比べらると非常に輸送力は小さく、高速道路もないため、自ずと国内の移動は列車しか無かったわけです。それ故、上級国民ではありませんが、富裕層と庶民をも混在して列車に乗車することとなるわけで、必然的に優等車の比率も現在とは比べものにならないほど多かったと言うことになります。
そして、片道7時間以上かかるとなると、夜の時間帯に移動できればより効率的有るとして、東京~大阪間なども夜行列車が昼間の列車以上に設定されたと言えるわけです。

これは、有効時間帯を上手く使うために、こうした列車の需要がかなり有ったと言うことになります。
当時は、飛行機も昭和26年に日本航空株式会社が半官半民という形で設立されましたが、輸送力は小さく、多くの旅行者は鉄道を頼るしか有りませんでした。
当時の列車に、2等車の比率が高いのも、そうした理由からでした。

次回は、特急あさかぜの誕生について書かせていただきます。

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新・寝台列車論 終戦直後の夜行列車事情 第3話 

簡単ではありますが、東海道線を中心とした、夜行列車の運転史をご覧いただこうと思います。

寝台列車論からは脱線していますが、流れとして知っておいていただきたいので敢えて脱線させていただきます。

決戦輸送時のダイヤ改正と、夜行列車

昭和19年の復刻版時刻表を参照しますと、開戦前に運転されていた15・16列車【名士列車】などは姿を消して、座席中心の夜行列車のみが残っています。
門司行き 5列車 東京発 20:00 門司着 21:15
広島行き(呉線経由)7列車 東京発 21:00 広島 17:00
大阪行き 103列車 東京発 22:00 大阪 9:42
以上急行列車
鳥羽行き 241列車 東京発 22:10 鳥羽 8:50
広島行き 41列車   東京発 22:40 広島 21:50
広島行き(呉線経由)東京発 23:10 広島 23:57

と言った列車が東海道線区間の夜行列車と言えそうです。
img022.jpg
当時の時刻表【復刻版】から引用

終戦と夜行列車

太平洋戦争【大東亜戦争】は、昭和20(1945)年8月15日に、日本の無条件降伏という形で終結を迎えたわけですが。
翌年の昭和21年8月の時刻表を参照しますと、不定期列車を含めて、急行列車が6本【うち2本は不定期列車】が走っており、朝に出発する、博多行き1列車は、8:30に東京を出て、博多には11:30(もちろん、翌日)で、2・3等急行となっています。
その後は、101列車【大阪行き】が9:30に東京を出発し、大阪には20:47ですので、ほぼ12時間かかっています。不定期列車がありますが、それを省略して次は夜行列車として、5列車、門司行き急行が20:00発となっています。こちらも終着門司には、21:15ですので、25時間以上かかっていることになります。
その後、不定期の7列車【大阪行き】が21:00に出発しますが、定期列車としては、103列車が2・3等急行として、東京駅を21:40に出発、大阪には翌朝9:50であり、12時間の所要時間となっています。
いずれの定期列車も寝台車などは全く連結されておらず、2・3等客車だけでした。
ちなみに、この列車が、その後戦後の名士列車と呼ばれた、13・14列車のベースとなりますので、注目しておいてください。
img020.jpg
他にも、普通列車として現在は臨時列車でしか運転されない「ながら」の前身、149列車や、鳥羽行き241列車なども注目に値するかもしれません。

石炭不足の影響で、国鉄では昭和21年から何度かに渡って列車削減を行うのですが、この辺の事情がすっきりしませんでしたので、改めて調べてみました。
寝台列車論から離れますが、出来るだけ集約して書かせていただきます。

石炭不足が起こった背景は、元々終戦後炭鉱従事者の職場離脱等で出炭量が減少、当時は国鉄以外の産業は殆ど復興していなかったため、出炭=国鉄での消費で大きな差異は生じなかったのですが、産業が復興して鉄鋼などでも多くの石炭を使用するようになると、国鉄へ納入される石炭も不足気味となり、低カロリーの泥炭なども使用されたため、規定の速度が出せずにダイヤも乱れがちであったと言われています。
そのような理由から、国鉄では昭和20年以降、石炭の入手が困難となり、特に冬期は煖房も必要となるため更に石炭の消費は増えるわけで、昭和21年末頃にには大幅な列車抑制が行われました。
昭和21年6月の復刻版を参照しますと、これでもかという程列車が削減されているのが確認できます。
再び、昭和22年6月号の復刻版時刻表を参照したいと思います。
優等列車は僅かに2本、1列車、博多行き、東京を7:40に出発、博多には翌日の12:18到着約2時間ほどスピードダウンしているのが確認できます。
18:30東京発、門司行き、到着時刻は20:10であり、こちらは出発が早くなっていますがそれでも30分ほど余分に時間がかかっているようです。
ただし、、東京駅を21:40に出発する103列車などは運転されていません。
この時期が、国鉄に限らず日本国全体で深刻な石炭不足の時代であったと言えます。
img021.jpg
そして、この頃は営業列車自体は現在と比べるも無く少ないですが、貨物列車や、時刻表に掲載されない列車(復員輸送や、第3国人(中華人民共和国・台湾・朝鮮人)の帰還事業なども併せて行われていたことも知っておいていただきたいと思います。


戦後の名士列車に関しては、次回にお話をさせていただきます。m(_ _)m
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新・寝台列車論 寝台車の始まり 第2話

戦前の寝台列車、名士列車

寝台列車のルーツは、山陽鉄道にあると前回お話をさせていただきましたが、今回は現在のクルージングトレインと言っても良いような列車のお話をさせていただこうと思います。
その列車は、東海道本線を走った、急行 17・18列車と呼ばれるもので、東京~神戸間を走っていました。
名士列車と呼ばれた列車に歴史を簡単に振り返る
名士列車と呼ばれた列車は、明治39年4月16日のダイヤ改正で誕生した、
最急行の1・2列車(後の特急富士)夜行急行列車(3・4列車)をそのルーツに辿ることができます。
同じダイヤ改正では、3等主体の5・6列車も設定されており、いずれも新橋~神戸の間に設定されています。(神戸以西は山陽鉄道
弊サイト、国鉄があった時代から引用します。
日露戦争「凱旋」ダイヤより平時ダイヤへ 4/16
  1. 東海道線新橋~神戸間1・2等「最急行」1・2列車(食堂車付、13時間40分運転)、1・2等急行3・4列車(寝台車、食堂車付)、3等急行5・6列車(和食堂車付)を設定。
    急行列車券を発売(和食堂車、急行料金のはじまり)。
    新橋~下関間 直行11・12列車(寝台食堂車付、37時間5分運転)
    新橋~神戸間2往復、新橋~大垣、静岡~神戸、名古屋~神戸間各1往復
    の長距離列車運転。
  2. 北陸線 神戸~富山間1往復
    米原~富山間3往復運転
  3. 奥羽線 福島~青森間1・2列車(16時間58分運転)
    福島~秋田
    新庄~青森間各1往復運転
(東海道本線)【移転・駅名改称】清洲(初代)→枇杷島。【信号所開設】清洲信号所 4/16
山陽鉄道ダイヤ改正 4/16
大阪~下関間「最大急行」301・322列車(食堂車付、神戸以西13時間運転)
「急行」2往復(寝台食堂車付)
京都~広島、糸崎~下関間各1往復運転
引用終わり

何故、名士列車と呼ばれたのか

名士列車、読んで字のごとくですが。

「世間に名を知られている人。著名な人。」という意味ですが、当時は現在とは比べものにならないほど階層意識が強く、それでいて。移動手段は鉄道しかありませんでしたので、勢い、列車でも賓客と庶民を分ける必要がことがありました。

こうした流れは、東海道新幹線が開業する前の特別室付き展望車【パーラーカー】まで引き継がれましたが、山陽線転出後は、パーラーカーは連日空気輸送となり、やがて開放室は2等車に改造されて、形式もクロハ181となりました。

この辺は、寝台列車のお話とは関係ないので割愛させていただきます

img014.jpg

昭和3年、復刻版時刻表から

3列車が後の「櫻」、1列車が、「富士」で3列車は、和食堂、1列車は洋食堂となっているのがご覧いただけるでしょうか


その後も、順調に発展する名士列車


名士列車は、高級軍人や政治家、大企業の経営者なども多く利用しており、いわば列車がサロンの役目を果たしていました、そして、そのサロンの中心となったのが、食堂車でした。
当時は現在のように駅構内などで食料を調達することは容易ではなかったため、急行列車の多くには、食堂車が連結されていました。
一般の急行列車では、和食堂車と呼ばれる和食が中心のメニューの列車でしたが、名士列車と呼ばれた列車では洋食堂車が連結されていました。

名士列車の特徴として、3等級制時代に、1・2等のみで編成されていたわけで、その豪華さは容易に理解していただけるのではないでしょうか。
当時の編成を調べてみますと、荷物車1両、1等寝台車3両、2等座席車1両、食堂車1両、2等寝台車5両の11両編成で、1等寝台車緩急車は、(マイネフ37230形後の マイネフ38形)は、17・18列車専用の車両であり、個室寝台車でした、2等寝台はツーリスト形と呼ばれる、マロネ37350形(後のマロネ29)と呼ばれるもので、こちらは通勤電車タイプのロングシートを夜間は引き出して使うとともに、天井に収納した上段を下ろして使うようになっていました。
なお、この列車は神戸から外国航路への連絡列車の使命も持っていたようで、要人などの利用も多かったものと推測され、名士列車という名称がつけられました。
特急「櫻」や超特急「燕」でも3等車を連結していたのに対して3等車を連結していなかったわけで、この列車の伝統は戦後、急行銀河に引き継がれることになります。
その前に、少しだけ当時の国鉄の考え方を以下に示してみたいと思います。

戦前の国鉄では個室を1等・開放室は2等

当時の方針では、個室を1等、開放式は2等車として扱うこととされていました。
皇族専用車のマイロネフ37290後の、マイロネフ38のように、プルマン式寝台を2等車として扱っていたのがその証左といえます。
戦後はマイネ41も2等寝台車の扱いにしたかったようですが、GHQとしては個室を1等車とすることは認めず、結果的に戦後の開放式寝台車も1等寝台として扱うこととなり、1等寝台車で冷房装置が設けられたマイネ40(戦前の基準ならマイロネ40?)となっていたであろ車両がマイネ40として誕生し、マイネ41も、マロネ41で誕生するところだったのでしょうが、マイネ41で誕生しています。
さらに、スロ60も国鉄ではスイ60としたかったようですが、GHQの意向でスロ60ということで2等車の扱いとなったのもご存じの通りかと思います。

当時のGHQの見解では、冷房装置(当時の表現では空気調和装置)の設置が1等・2等を分ける基準にしていたのかもしれません。
なお、この辺は今後更に新しい資料等があれば追記させていただきたいと考えております。

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新・寝台列車論 寝台車の始まり 第1話

はじめに


寝台列車というのは、魅力的に聞こえる言葉です。
かっては、ブルートレインと呼ばれた青い客車・・・現在は、定期で走る列車としてはサンライズしか残っていません。
いまも、寝台列車復活の要望は、鉄道ファンを中心に多いのですが、現状で寝台列車は復活できるのでしょうか?
寝台列車を復活させるためにといって、一生懸命行動しても、それが社会的欲求に合致したものでなければ、それはあくまでも鉄道ファンの妄想でしかないと言えそうです。
ここでは、寝台列車論としていますが、寝台車の歴史などから書き起こして、今後寝台列車【寝台車だけで編成された列車以外も含めた列車】のあり方を個人的に絞殺していきたいと思います。

寝台車の歴史


日本で最初の寝台車は、山陽鉄道
山陽鉄道をご存じであろうか、現在のJR山陽本線を構成する路線で、神戸から下関までの区間となっています。
山陽本線のことを調べていきますと、現在の鉄道サービスの基本はほとんど山陽鉄道が発祥と言えそうです。
今回の寝台車然り、食堂車も、山陽電鉄が始めたものでした。
他に変わったところでは、車掌という名称、これも山陽鉄道が最初に使用したとされています。
さて、車掌の話まで始めると本題から外れてしまいますが、こうしたサービスを最初に取り入れたのは、一つは官営に対する対抗意識があったと言えそうです。
山陽鉄道に導入された寝台車は、食堂車との合造車で、明治33(1900)年4月8日であり、このときに導入された、食堂車付き一等寝台車でした。
なお、前年の明治32(1899)年8月には、夜行列車には蚊帳を貸与したとされています。
日本最初の寝台車は、定員16人のプルマン式寝台車
山陽線における初めて導入された寝台車は、プルマン式寝台と言われるものでした。
ただし、片方だけがプルマン式と言えるタイプの2段寝台で、反対側はロングシートのようなタイプでした。
sannyourailway_sleepingcar.png
昭和47年5月 国鉄線記事から引用

弊サイト 国鉄があった時代を参照しますと、官鉄が寝台車を連結するのはもう少し後で、明治35年7月10日に寝台車・食堂車に扇風機を取り付けとありますので、この頃にであったと思われます。
 東海道線寝台車および食堂車に電気扇を装置 7/10

又、翌年、明治36年には、山陽鉄道で二等寝台車の連結が開始されたと書かれています。
東海道線時刻改正 1/20
新橋~神戸間「急行」列車の運転時間を約1時間30分短縮し、1・2列車
(食堂車付)を15時間、3・4列車(寝台車、食堂車付)を1・2等編成の15時間20分運転
直行列車を3往復とする
新橋~大垣、新橋~名古屋、新橋~浜松、新橋~静岡、静岡~神戸、浜松~神戸、名古屋~神戸間各1往復の長距離列車を運転
山陽鉄道時刻改正 1/20
京都~下関間「最大急行」305・318列車(食堂車付、神戸以西下り11時間30分、上り11時間20分運転)
「急行」(寝台食堂車付)3往復、大阪~糸崎間下り2本上り1本
広島~大阪間上り1本、広島~下関間1往復の長距離列車を運転

ただし、寝台車はまだまだ高級な車両であり、一般庶民は堅い座席で夜を明かさなくてはなりませんでした。
ちなみに、現在のB寝台車と呼ばれる三等寝台が誕生するのは、昭和6(1931)年まで待たねばなりませんでした。
再び弊サイトから引用させていただこうと思います。
東海道線東京~神戸間急行13・14・19・20列車に3等寝台車を連結(3等寝台車のはじめ) 2/1
三等寝台が連結された背景には、経済不況で収入減少を来していた国鉄が収入増とサービス向上から導入されたものでした、特急つばめ(戦前は燕)の運転開始したのも同様な理由からでした。
ただし、庶民向けの三等寝台車は、俗に蚕棚と呼ばれた3段式で、かつ52cm幅の寝台は、当時の日本人でも窮屈という声がありました。

それでも、少しでも足を伸ばして横になれることはサービス向上であるとして喜ばれたそうです。
この車両は、スハネ30000【戦後は復元でスハネ30】と呼ばれたものでした。
戦前の寝台車は、通路側の一部にカーテンがあるだけですので、プライバシーは全くないと言っても過言ではありませんでした。
なお、優等車としては、皇族用のマイロネフ37290形【後の→ スイロネフ38形】や、特急富士用に製造された、マイネ37130形【後の マイネ38形】等優等車はありましたが、引き続き寝台車は戦前にあっては、庶民の乗り物とはほど遠いものでした。
なお、マイネ37130形は一両だけ、シャワー室が接地されましたが湯量が十分でなかったり、一両だけの改造であり使い勝手が悪かったこともあり、まもなく使用中止に追い込まれたようです。

このように、戦前にあっては寝台車というのは非常に限られた需要を満たすだけの存在であり、例外的に三等寝台として一部導入されたとはいえ、横になれるだけましと言った代物であり、現在のサンライズのように個室寝台などは一等寝台のみであったことを考えると隔世の感があります。

続く

次回は、戦前の優等列車、名士列車15・16列車を取り上げたいと思います。


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プロフィール

加藤好啓(blackcat)

Author:加藤好啓(blackcat)
みなさま、こんにちは。日本国有鉄道研究家、鉄道ジャーナリスト加藤好啓です。
地方鉄道を活性化することで、地方を再生できないかと言うことで研究とともに提言活動などもさせてもらっております。
将来は地方政治家としての転身を目指しています。

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