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大阪駅にマイナス1番線があった?

今日は、大阪駅のトリビアなお話をさせていただこうと思います。
現在の大阪駅は、環状線を1番線として11番線までのホームがありますが、かつては現在ルクアの部分もホームが有ったことを覚えておられる方も多いかと思います。

かつては、大阪環状線専用ホームが無かった

今回は、大阪環状線ホーム、現在の1番線・2番線に関するお話です。
西成線・城東線と呼ばれた大阪環状線が誕生するまでは、現在の環状線電車は、当時の城東線電車【内回り線】並びに、西成線【外回り線】は直接、現在の福知山線ホーム【3番線】に発着していました。

0番環状線ホーム誕生

昭和34年12月21日になって、内回り電車用のホームとして、0番線が誕生します。
昭和31年の国鉄部内誌 交通技術(s31)3月号を参照しますと、昭和35年までに0番線を設けて大阪駅ホームの緩和を図ると書かれています、
当時の資料から引用させていただきます。
 大阪駅電車折返線2線を福島方に設置する。なお35年度までには大阪0 番線を新設して、大阪駅ホームの不足を緩和する必要がある。  
 各駅有効長延伸、城東・西成各駅の乗降場は100m程度のものが多いので、輸送 人員の増加に応じ有効長延伸の必要がある。なお将来相当期間環状電車運転の時 隔の短縮は不可能であると予想せられるので、新駅および改良工事を行う駅は、 将来8両運転が可能であるように考慮する。
と書かれています。
これにより、昭和34年12月には0番線誕生、しばらくはこの時代が続くことになりました。
この時は、0番線を内回り電車(旧城東線)を1番線【現在の3番線】を外回り電車(旧西成線)が利用していたようです。
後述しますが、2番ホームが長距離列車の発着ホームとなるので、混雑が大きかったと言われています。

大阪駅の混雑緩和のために更にホームを増設

万国博覧会を昭和45(1970)年に控えた昭和42年3月7日に、大阪駅の改良工事計画が理事会で決定しています。
工事概要は以下のとおりです。
 大阪駅の利用客は、遠距離、近距離とも増加が著しく、現状では、1番線【現在の3番線】を環状線2番線【現在の4番線を福知山線・山陽線・四国方面の列車が使用しており、ホームが環状線と共用となるため、一部列車を5番線【電車線】から発車させるなどの問題があり、更に今後、万国博覧会の開催などで、その利用者が1日100万人に達することが考えられることから、抜本的な改良工事を行うこととなったもの、今回の計画は以下のとおり

  • マイナス1番線を新設し、環状内回線にあてる、
  • 東口通路の拡幅及び出改札口の改良、
  • 中央コンコースを拡幅しオーブンカウンターの出札室を新設すると同時に中央コンコースを整備
  • 支障業務機関の移転(駅舎濃一部を取り壊してスペースの確保)
等の改良工事が行われることとなっている。
総工事費19億8000万円、昭和42年4月着工、45年9月完成予定。(マイナス1番線使用開始は45年3月)
参考:国鉄があった時代、昭和42年

駅舎の一部を削って新たなホームを設置

ホームの設置にあたっては、下図のように駅舎の一部を取り壊し、そこにホームを設けるもので、支障する建屋の中には、土産物店等が入っていたため、大阪駅地下1階に移転することになったと書かれています。
osakaloop_0.jpg
なお、新ホームの使用は、3月12日からだそうです。
 鉄道ピクトリル昭和45年5月号から引用

大阪環状線、環状線ホーム使用開始【現在の大阪駅ホーム1・2番線】 3/12
弊サイト国鉄があった時代 昭和45年前半編参照

なお、国鉄部内誌などではマイナス1番線と表記がなされていますと、工事中には確かにマイナス1番線と言う表示がなされていたようですが、開業前には環状1番線・環状2番線に変更されています。

現在は大阪駅改良工事に伴い、環状線が1番・2番線を名乗っているのは皆様よく御存じのとおりです。

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本州・四国連絡橋のお話し諸々

計画された、本州と四国を結ぶ鉄道ルート

本州と四国を結ぶ吊り橋として、現在鉄道が通過しているのは、南備讃瀬戸大橋、北備讃瀬戸大橋を含む瀬戸大橋が唯一ですが、計画当初は、明石海峡大橋も鉄道橋として建設して、既に開通している、鳴門大橋を経由して四国と関西を結ぶ路線も計画に入っていました。
色々と調べていますと、興味深いblogを見つけました。

南あわじ市の市政と県病について

と言うタイトルの記事で、と言う記事がありました、こちらを参照しますと、鉄建公団としては技術的には、可能であったと書かれています。

当該ブログから引用させていただきます。

その後、昭和50年(1975年)8月、三木内閣の下で、改めて合意がなされる。 そのとき、「児島坂出ルート(瀬戸大橋)は鉄道・道路併用橋として建設し、神戸鳴門ルート(明石海峡大橋)と尾道今治ルート(しまなみ海道)は部分的な架橋工事に着工する」と、最終的に取り決められた。 この時点では、まだ明石海峡大橋の鉄道敷設については、表向き「保留」だった。 しかし、60年(1980年)8月、明石海峡大橋は正式に「道路専用橋」と決定されてしまう。

実は、当時の公団の技術陣は「道路・鉄道併用橋でも充分に可能」だとしていた。 ところが、「吊橋構造での4キロ近い長大橋(明石海峡大橋は3900m)の併用橋は、世界的に例がない」、その点、瀬戸大橋は距離は長いが、途中に小島が連なっていて、明石海峡大橋ほどの長大橋は必要なく、工事費も安くなるという経済的理由などによって、瀬戸大橋は「道路・鉄道併用橋」、明石海峡大橋は「道路専用橋」になってしまった。

800px-Akashi_Bridge.jpg

明石海峡大橋 画像wikipedia


結果的には、1973【昭和48】年の石油ショック以降経済成長は終わりを告げ、こうした建設計画も一気に見直されることになってしまいました。

再び建設が決定されたときは、上記blogに書かせていた頂いているように、明石海峡大橋は建設費が抑制できると言うことで、道路専用橋として建設されることになるのでした。

本当に経済的理由だけだったのか?

とここまで書いて、本当に経済的な理由だけだったのか?
私個人の記憶では、技術的な問題もあったような記憶もありましたので、もう少し調べて見ますと、更に専門的なblogが見つかりました。

いやぁ、正直調べて見ると、本当に色々な資料が簡単に参照できる時代になったものです。

正直脱帽です、ありがとうございます。

このblogによると、大鳴門橋建設途中で、鉄道併用橋を止めようと言う意見もあったようで、経済的にも技術的にも明石海峡大橋の併用橋は難しいと言う結論に達したとされています。


明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等


この記事を参照しますと。
技術的にも難しっかったと書かれています。少し引用してみたいと思います。

これだけだと、政治的、経済的理由で鉄道の建設を取りやめたように見えるが、前述のとおり技術面でも厳しい部分があったようだ。

伊東 鉄道をやめたのはどんな理由なのですか。当初、三橋とも鉄道が併設されるという話でしたね。

井上 西は違っていたと思います、鉄道はなし。

伊東 真ん中と明石海峡。

井上 それで、真ん中ももうできましたし、鉄道もできていますが、東の明石海峡をやめたのは、やはりあれだけの長大吊り橋になると、 たわみが大きくて、吊り橋のジョイントというのか、あそこで非常に危険があるというようなのが最後の決め手になったみたいでやめましたけれども。
伊東 技術的な理由で。

井上 ええ。まあ、克服できないものではないと思いますがね。あそこしかないとなったらやるでしょうけれどもね。鉄道もあそこはあきらめるということで、割にすんなりといきました。

ということで、国鉄としても技術的にも厳しいこと、更には国鉄の財政的な部分もあったと思いますが、結果的に明石海峡大橋の鉄道併用橋は諦めたようです。


狩勝実験線では走行安定実験が行われたと言う事実も知って欲しい


結果的には、瀬戸内海における鉄道併用橋は、高松と岡山を結ぶ、備讃瀬戸大橋だけになりましたが、吊り橋における走行安定実験が昭和45年に行われたという事実も記させていただこうと思います。

本州・四国間つり橋走行安定実験始まる 10/13

国鉄が日本鉄道建設公団の委託をうけて研究、開発を進めている本州’四国間つり橋の走行安定実験が狩勝実験線において開始された。
 本州・四国間のつり橋は鉄道の走るつり橋としてはわが国初めてのもので、種々の解決すべき問題を抱えている。今回のテストは「角折れ区間の走行試験」とよばれるもので、レールのゆがみとその影響を探ろうとする試みである。すなわち、つり橋の橋脚の間隔が長大化すると列車が走るとき橋の中央部分が大きくたわみ、支持している橋脚の部分ではレールが「へ」の宇型になる。これが「垂直方向の角折れ現象」で、ここを高速で通過する列車は、はねあがる恐れがある。
また同様に、橋げたが強風などで左右の方向にゆがむのが「水平方向の角折れ」と呼ばれ脱線の原因にもなる。
 今回の実験はこの垂直・水平方向の角折れが車両の走行安定性にどのような影響を与えるかを探り出そうとするものである。実験は10月30日まで各種の条件の下で行なわれ今年度の実験は終了するが、来年度も引続いて行なわれる予定である。
架橋に際して、狩勝実験線でこうした試験が行われたことはあまり知られていないと思われますので、ここに紹介させていただきます。


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国鉄気動車の塗色、戦前に試験塗装が行われたという話

 戦前は、客車はもちろん、電車も褐色【ぶどう色1号】と呼ばれる、茶色の濃い色が採用されていました。
ぶどう色1号
戦前は、蒸気機関車の牽引による列車が殆どで、明るい塗装の車両などを導入することは考えられていませんでした。
気動車も、導入当初の車両はぶどう色1号だったのですが、試験的にキハ42000等に試験塗装を行ったと、国鉄の部内誌、交通技術という雑誌にでていましたので、ここでしょうかいさせていただこうとおもいます。

を参照していますと、面白い記事を、見つけたのでアップさせていただきます。
戦前の気動車に試験的に、特別な塗装を施したという記事です。
気動車の塗装
この記事によりますと、キハ42000が4両製造されて、西成線(現在の桜島線)と武豊線に配属され、試験的に特別の塗装が行われたと書かれています。
それによりますと、西成線配属のキハは、濃褐色と黄褐色の塗り分け、武豊線配属車は、濃コバルトと灰白色との塗り分け出会ったと書かれており、西成線の塗装は、その後モハ52の流電旧塗装に近いものであったと思われます。
また、武豊線配属車は横須賀線のスカ色の基本となったようです。

もっとも、戦前は同じ国鉄といえども関西と関東では電車の仕様自体が異なっていた時代で、戦後も同じ湘南電車でも、関東が湘南塗りということで、オレンジと緑を採用したのに対し、関西は、流電の2次形の塗り分けを逆にした、裾部がマルーン、窓回りをクリームにした、金太郎の腹掛け塗装が採用されていました。
この塗装が、湘南色に統一されるのは、昭和31年の東海道線全線電化まで待たねばなりませんでした。
なお。武豊線試験投入された、キハ43000もキハ42000に準じた内装でした。
参考になるblogが有りましたので、リンクを貼らせていただきます。


キハ四二〇〇〇
戦後の旧気動車標準塗装のキハ42000【正確には、42500ですのでデイゼル機関に換装したタイプですね。】

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EXPO70 よもやま話、国鉄で運転された臨時列車のお話を中心に

EXPO'70 昭和45年、大阪府吹田市千里山丘陵で開催された万国博覧会

2025年、大阪舞洲での万国博覧会開催が決定しましたが肝心のアクセスが、地下鉄一本だけで、かつ桜島からまだ先というのはかなり遠く、埋め立て地であることから、今年の台風で関空が被害に遭ったように名ことに成らないかという懸念も持たれています。
さて、今回は今から半世紀近く前に、吹田市の千里丘陵で行われた万国博覧会の旅客輸送について少しお話をさせていただこうと思います。
既に、ご存じの方も多いかと思いますが、1970年の万国博覧会では、道路からのアクセス以外に、中国自動車道の一部を占有して、複線の線路を延長して会場前のお祭り広場まで線路を延長しました。
万博閉幕後は、線路を撤収して現在の千里中央に行き先を変更しましたが。
当初心配された、万博輸送後の旅客数については、千里ニュータウンでの居住人口が増えたことも有り、現在では大阪メトロと一体で、一番の稼ぎ頭になっているのはご存じの通りです。
また、阪急も現在の山田駅より500m程北千里寄りに臨時駅が設けられて直接万博会場まで行けるようになっていました。
そして、国鉄では茨木駅がもう一つの最寄り駅として、駅からバスでアクセスする方式が取られました。

有名なところでは、エキスポこだまですが

そこで、万博輸送で活躍した臨時列車などを思いつくままに書いてみたいと思います。
万国博覧会輸送で、話題になるのが、「エキスポこだま」3月の改正では設定はありませんが、5月のゴールデンウィークで急遽仕立てられた列車のようで、三島駅の電留線を活用し、大阪~三島までは在来線で輸送し、三島から新幹線に乗車して、8:50に東京に到着すると言うダイヤでした。
夜行列車が、7:00~9:00過ぎまで到着できない事による苦肉の策と言えました。
エキスポこだま
他にも、新幹線は始発は6:00、終着は0:00迄に到着するのが基本でした。
ただ、万博開催中は早朝に出発し・深夜に到着する新幹線が存在しました。
こちらも、3月のダイヤでは設定されていませんので、ゴールデンウィークに設定されたものと思われます。
img483.jpg
ユニークな急行、「エキスポこだま」
片道だけ運転され、昼間に大阪まで回送させて、再びと言う非常に贅沢な使い方をしていましたが、ユニークな列車ではありました。

早朝、深夜に走った新幹線

さて、本題の早朝深夜に走った新幹線のお話を時刻表から見ていこうと思います。
昭和45年7月時刻表では、新大阪を5:40に出発する新幹線の他、0:20に東京駅に到着する新幹線が運転されています。
東海道新幹線に関しては、ワールドカップ開催時にも0:00を越えて運転される新幹線がありましたが、万国博覧会時にこのような列車が運転されていたことに驚きです。

0540shinkansen.jpg

0020shinkansen.jpg


大阪では、茨木駅が改名?

茨木駅では、万博開催を前に現在の高架駅に変更されており、昭和45年3月の万博開催前に落成となったそうです。
なお、万博開催期間中、茨木駅は、「万博東口駅」に変更されていました。もちろん正式に変更した訳では無く、愛称として、「万博東口駅」という名前を使ったそうです。
その辺は、国鉄部内誌、国鉄線に下記のような記事が出ています。
国鉄線197006号
国鉄線 昭和45年6月号から引用
また、この時から快速電車が茨木市に停車するようになりました。

関西圏を中心に臨時列車が運転される

万博輸送は12系客車の増備などで全国から、万博会場に輸送するための準備が図られたほか、新幹線もひかり号の16両編成化など強化工事が行われました。
再び、部内誌、国鉄線昭和45年1月号から引用したいと思います。

 一近郊輸送の概要一
 総入場者5000万人と想定した場合、会期中の休日平均入場人貝は約59万人となり、従来の想定による42万人と比較すると、約17万人増となる。
 五九万人のうち、鉄道輸送にかかる分は約39万人で、13万人の見込増となった。
 このため、次のような輸送対策を検討中である。
  1. 「万博号」の運転
      大阪鉄道管理局管内の小・中学校生徒を中心に計画輸送を行なうため、河瀬・姫路間に毎日三往復の臨時モデル電車(快速型)を運転する。
  2. 快速電車の茨木駅臨時停車
      快速電車は、現在。会場最寄り駅の茨木駅には停車していないが、万博中は、終日臨時停車させ  る。
  3. 京都終着の下り快速電車の茨木延長開場時のラッシュに備えて八時から九時の時間帯に、京都終着の快速電車のうち数本を茨木駅まで延長運転する。
  4. 編成増強
     基本編成で運転中の電車に附M編成四両を増結する。
  5. 休日に運転休止の電車復活運転
  6. 下り緩行電車の高槻始発を京都始発に変更
  7. 車両の新性能化
     103系車両を105両投入し、緩行電車の一部を103系に置き替えて、サービス向上

個々で注目されるのは、大鉄管内の小中学生を中心とした、快速電車が運転されたことが注目されそうです。
詳細は、現在調査中です。

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国鉄が行ったこんな割引、あんな割引

学割とは別に、勤労者割引なるものがあった。


国鉄時代から、学生割引というものがあるのは皆さんよくご存じだと思います。
ウィキペディアを参照しますと、下記のように概要が書かれています。
指定した学校の学生・生徒が、旅客鉄道株式会社各社(JRグループ)の鉄道と、JRバスグループ各社の一部の高速バス路線の乗車券購入時に窓口に学割証を提出し、かつ学生証を提示すると、片道の営業キロが101km以上の区間を乗車する際の片道乗車券・往復乗車券・該当する連続乗車券の券片が2割引となる。
私自身は、就職するまでは、父親が国鉄職員でしたので、もっぱら家族割引を利用しており、学割とは縁がなかったのですが、国鉄民営化を前にして、こうした割引制度も廃止になり、昭和61年、郵政省の中等部訓練で初めて学割なるものを使ったことがあります。
郵政省の中等部訓練は、学校教育法の学校に相当するらしくて、短大卒業程度の学力を付与することを目的として居たようです。
さて、本題に戻りますが、今回のお話は、学割に該当しない勤労青年向けに学割ならぬ勤労青年割引が導入されたという記事です。
詳細は、今後サイトにも書き加えていこうと思いますが、学生には割引があって、勤労青年には割引がないのは不公平ではないかと言うことで,昭和41年7月15日から設けられた制度で、勤労青少年旅客運賃割引規程及び同取扱手続制定 が7月9日付で制定されています。

昭和41年,国鉄があった時代から
国鉄があった時代、昭和41年後半編一部抜粋

割引制度の概要

少し長いですが、当時の概要を記録した、資料がありましたので,引用させていただきます。
事業所の,代表者の発行する勤労青少年身分証明書の交付を受けておき、勤労青少年が帰郷旅行する際は、事業所の代表者が旅客運賃割引証交付申請書を労働基準監督署長に提出して、割引証の交付を受けることとなる。
この場合、前記身分証明書は、旅客運賃割引証交付申請書提出の際に提示しなければならないことになっている。
旅客運賃割引証は、国鉄で作製し、労働省を通じて労働基準監督署または婦人少年室に配付するが、その種類は、お盆帰省用の第一一種と年末年始帰省用の第二種となっており、第一一種は七月十日(本年に限り七月十五日)から八月二十日まで、第二種は、十二月十五日から翌年一月二十五日までのいずれも40日間に限り使用できることとなっており、交付枚数は、勤労青少年一人について、第一種及び第二種各一枚である。また、この割引証によって、乗車券を購求する際に、身分証明書の提示が必要なのは、学生割引普通乗車券の場合と同様である。
勤労青少年の帰郷旅行は、一般に帰郷地において、数日間以上滞在することが考えられることおよびこの割引証によって購求する乗車券は、往路用と復路用を一括して発売していることにかんがみ、割引乗車券の送用期間は、規則所定で計算して一四日聞にみたないものについては、一四日とする特例措置が講じられている。
国鉄線 昭和41年8月号から引用
以上の通りであり、これに対して世論は一応に歓迎の意向を示していました。再び、国鉄線の記事から引用してみたいと思います。

世論の声は中々厳しかったが

下記は当時の記事をそのままスキャンしたものですが、手続きが面倒だと文句を言う人もいるようですが、こうしたクレームはどんな場合でも、有るわけでまぁ、こういった人に限って利用はしないと思うのだがいかがであろうか。
もちろん、制度の導入よりもむしろ学割の制度を見直すべきではないかという意見もあるが、世論の声として、勤労者割引で実家に帰れると喜んでいる人が居るという記事はそれなりに国鉄に取っても救われることではないだろうか、と結んでいます。

ちなみに、この勤労青少年旅客運賃割引規程は、2003年まで存続していたようです。
 勤労青少年旅客運賃制度は、勤労青少年の帰省の便を図る目的で、昭和41年に勤労青少年の福祉向上を図る取組みの一環として設けられたものですが、勤労青少年の減少、近年の交通手段の多様化等により、利用実績もごく僅かとなり、所期の使命を終えるに至りました。
sss.jpg

制度があったと言う事実だけは知って置いて欲しい

こうした制度等は、車両の話などと比べると地味ですが、まだまだ日本が経済的に貧しかった頃、それを支えてくれたのは、我々の先輩でした。
そして、国鉄もそれに対して、応えようとしたということは知って置いて欲しいと思うのです。
なお、この制度が導入された、昭和41(1966)年頃は、中学卒業で就職する人も多く、集団就職列車も数多く運転されていました。
当時の資料などを参照しますと、就職する中高校生を対象に、北海道・東北・新潟・山陰・四国・中国・九州の各地から,東京、名古屋、大阪へ向けて約100本の集団就職列車を運転することとしたと書かれています。
当時の大学進学率は21%程度であり、多くは高校を卒業すると働き出す、場合によっては中学を卒業して働き出す子供も多かったのでした。
現在では半数以上の人が大学に進学することを考えると隔世の感があります。

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お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
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プロフィール

加藤好啓

Author:加藤好啓
みなさま、こんにちは。日本国有鉄道研究家、鉄道ジャーナリスト加藤好啓です。
地方鉄道を活性化することで、地方を再生できないかと言うことで研究とともに提言活動などもさせてもらっております。
将来は地方政治家としての転身を目指しています。

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