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新幹線開業前後と寝台列車

今回は、新幹線開業と夜行列車という観点から見ていこうと思います。
新幹線の開業は、1964(昭和39)年10月1日でした。

当時の新幹線の位置づけは、東海道本線別線による線増(いってみれば、一般国道のバイパスが出来たみたいなイメージでした)
新幹線列車も1時間に1本、「こだま」と「ひかり」が走るダイヤであり、「ひかり
4時間、「こだま」5時間でスタートしたのは皆様よくご存じだと思います。

当時の時刻表を参考に比較してみたいと思います。
その前段の条件として、夕方以降(16:00以降)出発する列車のみを抽出して比較してみたいと思います。
幸い、昭和39年は4月号と10月号がありますので、この二冊で比較してみたいと思います。

寝台列車・夜行列車
東京始発 特急4本  急行 20本【うち2本は併結列車】、準急1本、普通1本
特急列車は、以下の通り
さくら・みずほ・あさかぜ・はやぶさ
急行列車は、以下の通り
第2宮島、出雲、伊勢・那智、はりま、能登、安芸、銀河、すばる、瀬戸、明星、第2いこま、筑紫・ぶんご、彗星、あかつき、月光、金星、第2せっつ、大和
準急列車 東海7号
普通  145列車 大阪行
でした。
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img104.jpg

夜行時間帯に、急行列車だけで20本というのはかなりの本数だと言えます。
さらに、年々所得も向上し、寝台車の需要は旺盛であり、夜行座席列車もあるものの、寝台専用列車も増えていきました。
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併せて、大阪発の寝台列車・夜行列車も見ていきたいと思います。
【桜島】【霧島】【雲仙・西海】【高千穂】は東京始発の昼行急行ですが大阪から夜行区間となります、それを含めて。純粋に関西始発の列車を見てみますと、

特急列車は無く、急行列車のみとなります。
日向、ひのくに、玄海、はやとも(臨時列車)、天草、平戸、第2日向(季節列車)阿蘇(名古屋始発)、第2玄海、音戸、ななうら、と季節・臨時列車を含めれば11本+4本の15本の夜行列車が走っていることになります。

さて、これが新幹線開業後の昭和39年10月ではどのように変化するのでしょうか。
今度は、昭和39年10月の時刻表を参照してみたいと思います。

寝台列車・夜行列車
東京始発 特急5本 急行 14本【うち1本は併結列車】、準急1本、普通1本
特急列車は、以下の通り
さくら・みずほ・あさかぜ・はやぶさ、富士 
急行列車は、以下の通り
出雲、那智、さぬき、能登、安芸、銀河、瀬戸、はりま、明星、金星、月光、第2いこま、大和・伊勢
準急列車 東海6号
普通  145列車 大阪行
img104.jpg

img106.jpg
赤文字は、今回新設された列車
それでは同じように比較のために、大阪の場合も確認してみたいと思います。
大阪始発の特急列車は無く、急行列車のみとなります。
東京からの列車としては、【霧島】【雲仙・西海】【高千穂】のみとなり。、「桜島」は、大阪始発ですが、10月の時刻表では運休中となっています。
img108.jpg

img109.jpg
関西始発の列車を見てみますと、日向、ひのくに、玄海、はやとも(臨時列車)、天草、平戸、第2日向(季節列車)阿蘇(名古屋始発)、第2玄海、音戸、ななうら、と季節・臨時列車を含めれば11本+3本の14本の夜行列車が走っていることになります。

こうして比較してみますと、山陽区間は直接新幹線の影響を受けないことから列車本数が影響を受けたわけではなく、僅かに桜島の廃止だけでした。
また、東京始発の夜行(寝台)列車にあっても、九州特急として「富士」が増発され、四国連絡として、「さぬき」が新設されています。
「さぬき」は、新幹線開業で廃止になった「彗星」の編成を転用したもので、オシ16形食堂車が連結された列車でした。
彗星時代と異なり、運転区間が伸びたため、営業時間は多少なりとも伸びたので収益は改善されたのではないでしょうか。
逆に東京~大阪を結ぶ列車は6本一気に削減されていますが
また、東京始発の夜間に出発する列車は2本程度増加しています。
当時の国鉄では、昼行の特急利用者は新幹線に移行するものと予測されるものの、夜間の移動はそれほど転移しないものと予測されたため、彗星を廃止する代わりに、「さぬき」として運転区管を延長【大阪→宇野】まで延長するとともに、「瀬戸」の救済列車となりました。
さらに、「みずほ」編成を独立させる形で、特急「富士」が誕生しています。

img113.jpg
昭和39年4月の編成
img111.jpg
昭和39年10月改正で誕生した、特急富士
みずほの、大分編成を分離する形で誕生、みずほの付属編成は博多回転【東京~博多間】となり、東京~博多間の輸送力が増強されることとなりました。

この当時では、東京~大阪でさえも7時間程度かかること。飛行機の利用が一般的でなかったこと、さらには飛行機の輸送力自体も小さかったことから、輸送の主力は鉄道であり、特に夜間に運行される列車の指向は強くかったこと、更に経済の発展で可処分所得が増加したことで寝台車の利用者も増えたことから、列車自体は量よりも質を求める傾向がでてきました。
それが、新幹線開業後の「富士」の増発【みずほの付属編成を独立した列車として、富士として独立】でした。

東京~大阪に限ってみれば、夜間帯に6本削減されたのは、当時新幹線への転移がどれ程進むか予測できなかったことから、少し多めに残したようです。
ただし、実際には開業一年目の結果では、夜行列車から新幹線へのシフトはさほど多くなく、むしろ需要の誘発効果が大きかったと記されています。
キャプチャ

昭和40年6月号国鉄線の記事から抜粋
調査の結果、新幹線の開通は東海道地区の沿線拠点都市間の交通量に大幅な増加をもたらしていることがわかった。しかし、夜行列車や遠距離直通列車からの転移は予想よりも少なく、この磁の列市中に対する旅客の需要にどう対処するかが大きな問題であることが明らかにされた
そうした意味では、新幹線が走っている地域でも適切な運転時間帯であれば、引き続き寝台列車などは競争力を持ち得ると仮定することが出来そうです。
この辺は、次回以降に掘り下げて検証してみたいと思います。
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新寝台列車論 夜を彩る東海道の夜行列車たち 昭和34年~38年

気がつけば1か月以上放置状態でしたので、改めて書かせていただきます。

さて、前回は20系客車誕生の頃のお話をさせていただきましたが、この20系客車は、基本設計がしっかりしていたこともあり、寝台電車が誕生した昭和42年以降も増備が続けられ、最終は、「あけぼの」用に昭和45年に製造されています。
その後、12系客車の分散電源方式を応用した、14系寝台車が製造されることになるのですが、その翌年、「急行きたぐに」の食堂車から出火、運悪く北陸トンネル内走行中であり、当時の規程に基づきトンネル内で停車したことから、多くの死傷者を出す惨事となったことから、再び分散電源方式ではなく、集中電源方式にする事となったのはご存じの方も多いかと思います。
ただし、時系列的にお話をさせていただいておりますので、今回は昭和34年~35年頃の「20系あさかぜ」以外の夜行急行列車などのお話を中心にさせていただこうと思います。

経済発展とともに増加する夜行列車

「あさかぜ」が20系に置き換えられてからは、「さちかぜ」は、「平和」に改められるとともに、運転区間を長崎まで延長したのはご存じの通りです。
その後、「平和」は20系化されて、戦前の三等特急「さくら」が命名されて、その愛称はどんどん変遷していきます。

そんな中、経済の発展に呼応して、旺盛な輸送需要は夜行列車を多数運転させることになりました。
昼間は、九州急行が東海道区間の昼行列車の役割も合わせて持っていた反面、夜間になると、東京~大阪を結ぶ多くの夜行急行列車が設定されていました。
当然と言えば当然ですが、当時は高速道路は開通しておらず、新幹線も開業していませんからその移動は自ずと鉄道に頼らざるを得ないと言う状況でした。

ここに、昭和31年~39年までの時刻表が幾つか手元にありますので、それを参照しながら東京~大阪間の列車本数の推移を見ていきたいと思います。
aaaa.png
手元にある時刻表を元に、拾ってみました。
基本的には不定期列車本数に含めず、九州方面列車には、安芸・瀬戸を含み、出雲、能登、伊勢、大和は東海道線の大阪方面向け列車の本数としてカウント、東京視点からですと、大垣止まりの東海などの準急電車も集計には入れていません。

ビジネスの需要を夜行列車が支え続けた

九州夜行と言われたこれら多くの列車は、東海道線の昼行列車の役割も果たしていましたが、その本数はさほど多いとは言えません。
その反面、夜行列車【寝台専用列車ではない】の比重が大きいことに注目していただければと思います。経済の成長とともに、東京~大阪間移動は増加していきました。
前述したように、高速道路も新幹線も無い時代ですから、当然と言えば当然でした。

当時は、これだけの夜行列車が走っていた背景には、時間を有効に使いたいという切実な思いがあったからに他なりませんでした。
今では、東京まで2時間半ほどで大阪から行けますので、日帰り出張が十分可能となりましたが、当時は7時間半を移動に費やすのは時間的にはロスであったわけで、それを避けるための手段が夜行列車であったと言うことを改めて知っていただければと思います。

新幹線開業で、多くの夜行列車は寝台専用列車化されていきますが、これも経済成長で可処分所得が増えたことと、新幹線への転移がどれ程見込めるか判らなかったことによるものでした。

夜行列車の復活を考えるのであれば、考えるべき点

夜行列車を復活させようという場合、大事なことは、目的地までの需要がどれ程有るかと言うことに尽きるかと思います。
目的地への需要が限りなく小さいと、いくら夜行列車を走らせろとか、需要はあるはずだと言われても、それは机上の空論でしかありません。

急行能登が、上越線に余力がなかったこともあり、米原経由で運転されていたという事実がありますが、元々金沢は大阪との交流もあったでしょうが、それ以上に東京とのつながりもあったからこそでしょう、金沢8:40着という絶妙のタイミングであり、金沢には20分前の8:20着で上野発の急行北陸が到着しており、対東京とのつながりは、当時は対大阪と同様に需要はあったもと言えないでしょうか。

その反面、急行伊勢・大和と言った、そうそうたる列車も走っていましたが、伊勢は、昭和36年以降は常に併結相手を探しているように、単独列車として成立させるには、需要がそこまで大きくない事がうかがえます。
もちろん、南紀観光は国鉄も非常に力を入れて、団体専用列車も投入したりしていますが、夜行列車の需要は全体としては小さいと考えられます。

さらに、注目すべきは、闇雲に寝台列車を復活させろということではなく、その列車が持つ輸送力はどれ程有るのかと言うことです。
今回取り上げた、昭和30年代は14両ほどの編成で優等車【二等寝台、座席車等】を除けば、三等寝台車も定員は54名【初期のナハネ10は60名】、普通車も80名から88名が乗車できました。
ですので、1列車辺り500人から600人以上運べたわけです、しかし、そんな詰め込みの夜行列車を鉄道ファン以外の人は望んでいるとは考えられません。
辛口な内容となっていますが、現状で定期的に走れる夜行列車というものを復活させるというのは非常に難しいと言うことです。

えちごトキめき鉄道に鳥塚氏が社長に就任し、夜行列車を走らせました。
以下、上越タウンジャーナル記事
チケットが1分で完売したと言うことで、話題性の作り方上手いなぁと改めて感心しているのですが、こうした列車は、話題性としては面白いですが、こうしたイベント的なものは、
常に新たな施策を考え、マンネリ化してしまわない工夫も必要になってくるかと思います。
夜行列車【寝台列車ではない】が新たな観光資源として発達するのであればそれは面白いと思いますが、ただ単に乗るだけが目的というのではこれも一過性のブームで終わってしまうような気がしてなりません。

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新寝台列車論 動くホテル 20系客車誕生

特急さちかぜの増発

昭和31年に登場した特急「あさかぜ」は、東京対九州間において圧倒的な利便性をもたらせたことで非常に好評で、翌年の7月20日には臨時特急「さちかぜ」が東京~長崎間に誕生します。
このときは臨時列車運転時の時刻表が手元にありますので、確認できるのですが、これによりますと、下り列車 東京発19:00→博多 12:25、上り列車 博多 16:05→東京 9:30となっています。
img057.jpg
特急さちかぜ、昭和32年8月号ポケット時刻表から引用

その後、10月には、定期列車として運転されるとされていますが、残念ながら定期列車時代の時刻表がないので確認が現時点では出来ません。
そこで、国鉄部内紙の、交通技術昭和32年10月号に定期列車でさちかぜ号が走ると記事があるのですが、時刻が少し怪しいのです。

引用してみたいと思います。
 “あさかぜ”の救済をかね、特急“さちかぜ”を東京~長崎間に新設した。東京~長時間特急としては 昭和18年、特急“ふじ”が廃止されて以来14年ぶりである。運転時刻は有効時間帝の関係で、下りは “あさかぜ”の30分後、上りは30分前走りとした
   下り東京発17時00分長崎着15時30分
   上り長崎発13時co分東京着7時30分
引用終わり
あさかぜの30分前後ということで、修正してみたのがこちら、「あさかぜ」の運転時刻が18:30(昭和31年時刻表参照)なので、これに基づき時刻を修正すると下記のような時刻となります。
これであれば、上りと下りで大きく異なる時間の大して整合性が取れそうです。

下り 東京発 19:00→長崎着 15:30
上り 長崎発 13:00→東京着 9:30
下り・・・18:00となっていましたが、誤りの指摘を受けて修正しました。
私の誤りで有ると判明しましたので修正させていただきます。

寝台特急「平和」と「あさかぜ」の20系化

その後、「さちかぜ」は特急「あさかぜ」と名称も似ていて、紛らわしいことから、昭和33年10月の改正では「平和」と改称されることになります。
再び、当時の時刻表から時刻を参照してみたいと思います。昭和33年10月の時刻表を参照しますと、特急「平和」として東京16:00→長崎12:15のダイヤとなっています。
そして、この改正で、特急「あさかぜ」は20系客車による固定編成客車に置き換えられることとなるのです。

img060.jpg
昭和33年10月時刻表から抜粋

なお、20系客車設計に関する記事が、これまた国鉄部内紙、交通技術の昭和33年1月号に
「特急用編成客車列車の計画について」というタイトルで書かれており、そこから車両に関する部分を中心に書き出してみたいと思います。
img058.jpg
昭和33年10月時刻表でも20系客車のことを紹介しています。

客車特急とするが、「つばめ・はと」のように方向転換は行わない。車両は特別色として、各車両には冷暖房を完備させる、食堂も全電化施設とする。そのため編成端に電源車を連結する。
編成は下記のとおりとする
荷物室(電源室付)    1両
2等区分室寝台車Aロネ  1両
2等開放室寝台車Bロネ  2両
2等座席車         1両
食堂車          1両
3等寝台車         5両
3等座席車         2両

となっています。
電源車は、当初スニ20で計画していたのですが、設計変更などでス級(ス=37.5t以上42.5t未満)に収まらず、マニ20と名乗ることになりました。
なお、マニ20は「あさかぜ」用に製造された3両に留まり、その後は車長を延長して荷物室を拡大したカニ21が標準となり、はやぶさ用にカニ22【パンタグラフ付き)が試作されましたが、結果的に64tと言う車重は重すぎることから、東海道・山陽線など特別甲線と呼ばれる幹線線区意外では大幅な速度制限を受けることから、「さくら」運用に入ることとなり、晩年は24系に編入されて24系25形の電源車として活躍していたことはご存じの方も多いかと思います。

当時でも、オール寝台車にすることに不安があったと言うことで、3両の座席車【2等1両、3等2両】が連結されていました。
実際には、2等座席車よりも、多少狭くとも横になって足を伸ばせる、B寝台車の方が人気があり、翌年に置き換えられる「さくら」編成以降、2等座席車の増備はありませんでしたが、3等座席車【昭和35年の等級改訂では2等車】は、昭和38年まで増備が続けられており、オール寝台車化するのは国鉄としても冒険だったことが窺えます。
キャプチャ
左が日本車輌デザイン、右が日立製デザイン (交通技術 昭和33年10月号から引用)

なお、ご存じの方も多いかと思いますが、あさかぜ用に投入された、20系客車は、日本車輌と日立の競作となり、デザイン等に違いがありました。
特に、食堂車のデザインの差異は顕著でしたが、2次車である「さくら」用からは仕様が統一され(注:私の誤認がありましたので、訂正させていただきます、日立製は昭和35年まで製造が続きます、大変失礼いたしました。ご指摘いただいた方に感謝いたします)その後は、日本車輌のデザインとなってしまいました、個人的には日立のデザインが好きでしたね。

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新・寝台列車論 特急あさかぜ、誕生

本格的な九州特急誕生

特急あさかぜは、東海道線全線電化の昭和31年の改正で、誕生しました。

弊サイト、国鉄があった時代を参照しますと下記のように書かれています。
最後まで残った、米原~京都間が電化されたことで、東海道線は全線電化を果たせました。
これにより、それまで、関西と関東で塗色に差異がありましたが、統一されることとなり、モハ52流電からの流れをくむツートンカラーは117系登場までしばし見ることができなくなりました。

白紙改正実施 11/19

特急あさかぜは、東海道線全線電化の昭和31年の改正で、誕生しました。 弊サイト、国鉄があった時代を参照しますと下記のように書かれています。 最後まで残った、米原~京都間が電化されたことで、東海道線は全線電化を果たせました。 これにより、それまで、関西と関東で塗色に差異がありましたが、統一されることとなり、モハ52流電からの流れをくむツートンカラーは117系登場までしばし見ることができなくなりました。 白紙改正実施 11/19 東海道線全線電化完成。特急、急行列車及び長距離通勤電車の増発、速度向上(戦前の昭和16年の水準に戻る)  なお、このときから、「つばめ」・「はと」は、全区間電気機関車による索引となり、所要時間も7時間30分となった。このときに機関車及び客車が緑黄色(通称青大将色)に塗装され話題となった。 大津市逢坂小学校において盛大な祝賀式が行われ、新装の特急「つばめ号」の出発式が、東京駅においては総裁出席のもとに行われ、東京、大阪で電化完成記念展、さらに記念切手、記念たばこ、記念乗車券の発売等と多彩な祝賀記念行事がくりひろげられた 東海道・山陽・九州線 東京~博多間特急「あさかぜ」(2、3等寝台車、食堂車付 所要17時間25分) 以下、略 新設された、「特急あさかぜ」は、所要時間、17時間25分(表定速度68.5km/h)であり、従来の普通急行「筑紫」が24時間56分かかっていたことを比べると、7時間31分も短縮されることとなりました。

東海道・山陽・九州線 東京~博多間特急「あさかぜ」(2、3等寝台車、食堂車付 所要17時間25分)
以下、略
新設された、「特急あさかぜ」は、所要時間、17時間25分(表定速度68.5km/h)であり、従来の普通急行「筑紫」が24時間56分かかっていたことを比べると、7時間31分も短縮されることとなりました。

大阪を無視した列車ダイヤ


なにゆえ、これだけ短縮できたかと言いますと、大阪を無視したダイヤを設定できたところが大きかったと言われています。
すなわち、それまでの列車は、東京~大阪間に日着させるダイヤとすることで、山陽区間でゆっくり走って時間を調整するダイヤであったためでした。
新設の特急「あさかぜ」は、大阪の到着時刻を2時頃と言った非常識的なダイヤとしたため大鉄局が反対したと言われていますが、京都~熊本間の臨時列車、天草の定期列車化と、急行玄海を京都~長崎(大村線経由)にすることで、関西からの乗車機会を確保することで決着することとなり、大鉄局は結果的に対面を捨てて実利を得ることとなりました。
キャプチャ

昭和32年1月、交通技術ダイヤ改正余話から引用


寄せ集めの車両たち


このときは、「あさかぜ」は固定編成の客車ではなく、又寝台専用列車ではありませんでした。
大阪を無視したダイヤが成立するのか非常に危ぶまれましたが、実際には大好評で、運転開始から2・3ヶ月ほど後には、臨時列車として要望されることとなり、福山駅に給水設備を設けて補水可能とするとともに、広島~京都間をC62形式限定使用として、定数を400t→460tにアップすることで、昭和32年3月からは、全区間でナハ1両増結、広島~東京間でナハネとナハの2両を増結、混雑緩和を図ったとされています。
増結後の編成は、オハニ36+マロネ2両+スロ60+マシ+ナハネ10(4両)+ナハ10(4両)の13両で460tギリギリの定数としたそうです。

これほどに人気を博した背景には、九州方面に向かうのに、東京を夕刻発つことで、翌午前中に到着できる所に魅力があったと言えます。
これは、現在でも同じではないでしょうか、夜行列車の魅力というのは、夜間の非有効時間帯に移動することができるというメリットであり、それ故に夜行バスが成り立っているわけです。
飛行機の輸送が殆どない時代であればこそ、国鉄のこうした長距離輸送は非常に魅力的なものであったと言えます。

ただ、昭和31年時点でも、座席車が5両(2等車1両、3等車4両)が連結されていることにも注目していただきたいと思います。
当時の経済水準では、寝台車は高価な乗り物であったということには注意していただこうと思います。
未だ未だ当時の経済水準では、オール寝台列車化を目指すのは未だハードルが高かったのです。
20系誕生までいきたかったのですが、長くなりそうなので次回にさせていただきます。

新・寝台列車論 戦後の夜行列車、銀河誕生 第4話 

終戦後に復活した、名士列車

昭和24年9月のダイヤ改正で誕生したようです。
このとき三往復の夜行列車が、東京~大阪間に誕生していますが、そのうち、15・16列車は戦前の17・18列車を彷彿させる、1・2等のみの6両編成であり、銀河の愛称が与えられ、列車の最後尾には、銀河のテールサインまで掲げられていたそうです。
銀河
昭和24年9月15日の時刻改正時の編成
銀河2
運転開始当初最後尾に掲げられたと言われる幻の行灯式テールサイン、
(鉄道ジャーナル昭和49年7月号から引用)
このときに連結された寝台車がマイネ40でした。

マイネ40はどんな寝台車?

マイネ40が誕生したのは、昭和23年なのですが、この車両の誕生までの経緯は色々あったようで、当初、GHQが昭和21年に寝台車を40両作れと言って指示したのが始まりだそうです、その後命令の撤回と再開が繰り返され、車両会社ではスローダウンしながら作業したものの昭和22年には22両が出来上がってしまい、外国人観光客向けの車両とし、余裕があれば日本人も乗車できる車両という名目で、やっとGHQから購入許可が下り他という経緯があったそうです。
日本人も乗車できるようにと制作した、・・・といった記述をしている資料もあるようですが、星氏の回想によれば、GHQ内での意見統一が出来ていなかったことが一番の原因と言えそうです。
車両の特長は、三部屋を区分室(2段式寝台個室)とし、中間に喫煙室を設けて、後半分は、開放式寝台(プルマン式)と呼ばれる車両で、空気調和装置(いわゆるクーラー)を夏場は設置することとされていました。(オフシーズンは、空気調和装置を外すことで、自重の軽減・動力費の節減)等、を図っていました。
現車は、JR東海のリニア館に復元されたマイネ40(マイネ40-7)が保存されていますので、興味のある方はのぞいてみてはいかがでしょうか?
img031.jpg
マイネ40外観
img029.jpg
区分室室内、製造当初は外国人観光客向けということで、カーテンに西陣織を充てるなどその豪華さは目を見張るものがあったそうです。
2枚とも、回想の旅客車から引用


銀河は3等車が連結された普通の列車に

しかし、この計画は上手くいきませんでした。
連日の空気輸送に、さすがに運輸省(当時は国鉄は誕生していません)としても、是正を図る必要があるとして、この豪華編成は、改正から9日後、9月24日からは、1等寝台車2両、2等座席車3両、3等車を8両+荷物車の1・2・3等急行となり、同時期に誕生した13・14列車や17・18列車と遜色ない編成となってしまいました。
下図は、昭和25年10月の時刻表(復刻版)から引用したものです。
イネ・・・1等寝台車(マイネ40)
ロネ・・・2等寝台車(マロネ39)
ロ・・・・2等座席車(スロ60)(うち1両は並ロと呼ばれた車両のようです)
ハ・・・・3等座席車
と言った按配でした。
銀河4

マロネ39に関しては、下記も参考にご覧ください。
国鉄旅客輸送今昔 87 1等寝台車があった頃 C寝台という選択
ちなみに、銀河以外の11・15列車(下りのみで表示)等に愛称が付けられるのは、昭和25年11月からでした。
銀河3
同じく、昭和25年10月時刻表の抜粋
11列車の1時間後、15列車の2時間前に出発、翌朝の7:32に大阪駅に到着する理想的なダイヤでした。

名門の誉れ、急行銀河

「銀河」以外は、列車の愛称名がないことに注目してください、急行列車にも愛称が付けられるようになるのは、昭和25年11月からであり、10月の改正には間に合いませんでした。

当時の国鉄における夜行列車(寝台列車は殆ど誕生していない)の愛称は気象や天文現象などを、昼行急行には、旧国名等という方向性が示され、11・12列車は明星、15・16列車は彗星の愛称が設けられました。
到着が比較的早い、11列車は、「宵の明星」と言う意味合いで、明星の愛称が、更に深更の時間帯を走る15列車には「彗星」という愛称を与えたのは列車の性格からしても上手く表現されていたように思われます。
なお、編成に関してはこの後、彗星と銀河は設備の面で、良き競争者となりサービス合戦を行うことになるのですが、直接寝台車論のお話からは外れますので割愛させていただきます。
なお、詳細は別のblogでお話をさせていただきます。
こうして、昭和25年以降、東海道区間には三往復の夜行列車が走ることとなりました。
ちなみに、昼行列車は、東京~大阪間は特急「つばめ・はと」の他は、熊本行き急行・鹿児島行急行、長崎行き急行が運転されており、これらの列車が、東海同区間における昼行列車として機能していました。
img030.jpg
昼間の列車時刻 昭和25年10月時刻表(復刻版から引用)

ここで注目されるべきは、特急列車以外の昼行列車は全て、九州直通列車であると言うこと、また、夜間帯にあっては、11・13・15列車以外にも、多くの37・39・201列車と三本の列車が集中していることに注目してください。

当時の夜行列車は、時間を有効に使うために必要な列車

当時は、飛行機も現在と比べらると非常に輸送力は小さく、高速道路もないため、自ずと国内の移動は列車しか無かったわけです。それ故、上級国民ではありませんが、富裕層と庶民をも混在して列車に乗車することとなるわけで、必然的に優等車の比率も現在とは比べものにならないほど多かったと言うことになります。
そして、片道7時間以上かかるとなると、夜の時間帯に移動できればより効率的有るとして、東京~大阪間なども夜行列車が昼間の列車以上に設定されたと言えるわけです。

これは、有効時間帯を上手く使うために、こうした列車の需要がかなり有ったと言うことになります。
当時は、飛行機も昭和26年に日本航空株式会社が半官半民という形で設立されましたが、輸送力は小さく、多くの旅行者は鉄道を頼るしか有りませんでした。
当時の列車に、2等車の比率が高いのも、そうした理由からでした。

次回は、特急あさかぜの誕生について書かせていただきます。

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プロフィール

加藤好啓(blackcat)

Author:加藤好啓(blackcat)
みなさま、こんにちは。日本国有鉄道研究家、鉄道ジャーナリスト加藤好啓です。
地方鉄道を活性化することで、地方を再生できないかと言うことで研究とともに提言活動などもさせてもらっております。
将来は地方政治家としての転身を目指しています。

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