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北陸トンネル火災事故で再び集中電源方式へ

北陸トンネル火災事故とは

北陸本線敦賀~今庄間の北陸トンネル内で発生した火災事故であり、食堂車の喫煙室付近から出火し、 死者30 名(うち国鉄職員1名〉、 負傷者714 名(消防署員、食堂従業員、国鉄職員を含む〉  を出した大事故でした。
概要を、昭和47年・国鉄監査報告書から抜粋してみたいと思います。

昭和47 年11月6日1時13分〈列車の停止時刻〉
陸本線敦賀・今庄間北陸トンネル内 〈米原起点55キロ260 メートル〉
急客第日1 列車しきたぐに寸〈大阪発、青森行〉
焼損車両 食堂車オ シ172018号(前から11両目 に連結)
事故の概況
  • 北陸本線下り急行第501列車は、敦賀駅を2 分遅れで 1時4分30秒に発車し、 時速約60 キロの力行運転で北陸トンネル内を進行中、1時11分ごろ、13 両目客車 (グリーン車)にいた専務車掌(客扱) は、 乗客から 11 両目食堂車に火災が発生 している旨の通報を受けた。
  • 客扱専務は、同席の乗務指導掛Aとともに直ちに同車両に向かつて走行したところ、  煙を認めたので引き返し、  車掌弁により非常停止手配をとるとともに、  乗務員用無線機で電気機関士に火災の発生を通報した。 一方、乗務指導掛Aは、消火器により 消火に努めた。
  • 機関士は、客扱専務の通報により非常停止手配をとり、   1時13分、  北陸トンネルの敦賀方入口から 約5.3 キロの地点に停止 した。
  • 第501 列車に乗務していた関係職員は、消火に努めたが、消火困難と認め、火災車両を切り離して脱出することとし、1時28分、今庄、敦賀両駅に携帯用電話機によって、事故発生の第一報を送り救援を依頼するとともに、 11 両 目食堂車と12両目客車の間を約60 メート ル切り離した。  引き続き9両目と 10 両目客車間の切離し作業中に、  1時52分、火災の影響により下り線の架棋が停電となったため、前途の運転が不可能となった
  • このため、車掌ら乗務員は、乗客の避難誘導に努めたが、  この時はすでに乗客の中には相当の混乱が生じていた。
  • 金沢鉄道管理局 は、本局および現地にそれぞれ事故対策本部を設置 し、県、市町村、警察署、消防署、自衛隊、病院等の応援を得て救援に当 たった。  しかしながら 、   救出作業は、トンネル内に充満した煙のため困難をき わめ、事故発生から10 時間余を要する事態となり最終的に、死者30 名(うち国鉄職員1人〉、 負傷者714名(消防署員、食堂従業員、国鉄職員を含む)  を生ずる 重大事故となった
以上が、事故がの概要であり、トンネル内で停止してしまったことで、多くの乗客が煙にまかれ、多数の被害者を出すことになりました。
ここでは北陸トンネルの事故を掘り下げるつもりはないので、この辺にしておきます。
最終的な原因は喫煙室に設置されたヒーターの過熱によるものであったそうですが、当初はオシ17が石炭レンジであったため、石炭レンジの火の不始末ではないかと言った発言などがなされ、十和田など他に連結していた食堂車一斉に中止となりました。
なお、実際火災を起こしたオシ17は長らく証拠物件として、松任工場で保管されていましたが、裁判終了後は廃車解体されています。
当時の北陸トンネルに関する世論に関しては、別の機会に取り上げてみたいと思います。

分散電源方式のメリット、デメリット

国鉄としては、北陸本線の事故を受けて、火災対策に本格的に取り組むこととなりました。
内装などに関しては、
  • ハードボードからメラミン化粧板への変更
  • シートなどもモケットから難燃化した材質に変更
  • 延焼を防ぐため、貫通扉のガラスは網入りガラスに変更
  • 貫通幌の難燃材料化
等が行われると共に、一先ず分散電源方式を止め、リスクを避けるため、集中電源方式に戻すこととなり、14系寝台車の寝台枠などもアルミ化するなど、極力難燃化対策を施した上で、集中電源方式を設計することとなり、形式も20系に次ぐ形式として24系が与えられました。(20系がナハネフ23まで番号を使っていたため)

再び集中電源方式化


これにより、電源車も新たに起こされ、マヤ24形電源車が設計されました。
マヤ24は、キハ900300PSエンジンにインタークーラーターボを設置して、(430ps/1200rpm)にアップした、発電専用エンジンとしたDMF31Z-G形に発電機DM95形 (300kVA)を組み合わせて3相440Vを発生させるもので、当初は荷物輸送は考慮されておらず、マヤ24としてデビューしました。
1024px-1992-8-11-kaya24-10.jpg
マヤ24 画像wikipedia参照

その後、業務用室に新聞輸送のため荷物積載スペースを作ったことで自重が変更となり、カヤ24となりました。
鳥取駅で出雲がカヤ24を連結しているのを見たことがあるのですが、切り抜き文字が間に合わなかったのか、ペンキ手書きで「カ」と書かれていまして、ちょっとがっかりした記憶があります。

こうして、新系列寝台車として誕生した14系寝台車は1年ほどで再び集中電源方式に変更されることとなりました。
集中電源方式とすることで、客車1両の連結量数が減る反面、床下に電源エンジンを積まないことで、静かな車内が実現したことも事実でした。実際、スハネフ14の場合、エンジン真上の下段ではかなりの騒音があったのでは無いかと推測されます。
口の悪いファンには、キハネフ等と呼ばれたものでした。


まとめ

分散電源方式は、電源車を個別に用意する必要がなくなるため、途中駅で分割併合が行いやすくなる反面、火災事故を起こす可能性のあるエンジンを床下に分散して配置するため、その分リスクが高くなるデメリットが北陸トンネルでクローズアップさせることになりました。
国鉄としては、リスクを避けるという意味合いからも当時の難燃化等を施すこととなりました。
網入りガラスの導入や、寝台枠のFRPからアルミへの変更などの措置が行われることとなりました。
その後、運用の都合で分割・併合を伴う区間向けに14系15形(24系25形の分散電源版)が1978年にエンジン部分の自動消火装置などリスクを最大限避けることを目的として、B寝台のみ製造されました。
夜に就寝すると列車と言うことで、リスクは最低限まで下げる必要があるのは当然のことではありますが、当時は労使問題を抱えていたこともあり、車両も利用者本位と言うよりも運用者本イナところがあり、配慮に欠けるところが多々あったものも事実でした。
そうした、運用者本位の設計から、利用者本位の設計になるのは、国鉄分割民営化を控えた、昭和59年のロビーカー連結の頃からですが、すでに国鉄の財政も逼迫かしており、本格的な夢のある列車が誕生するのは、JR発足まで待つしかありませんでした。
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14系寝台特急さくら・みずほ誕生

瀬戸で試用された14系寝台は、特急さくら・みずほに投入

急行瀬戸で試用された、14系寝台車は昭和47年3月15日の新幹線岡山開業で動きがありました。
急行瀬戸は晴れて特急に格上げされて、14系寝台は召し上げ、その代わり20系寝台をあてがわれ、肝心の14系寝台は20系化が一番遅かった特急みずほに投入されることとなりました。
弊サイト、国鉄があった時代を参照しますと下記のように書かれています。

「みずほ」一足先に、新車に 3/10
「みずほ」は、他の九州特急に先駆け14系寝台に衣替え、一番20系化が遅かった「みずほ」が一番最初に置き換えられることに。他に「さくら」・「あさかぜ2号」にも投入
なお、編成は下記のとおりでした。
mizuhio.png
なお、編成としては上記の通り、「さくら」「あさかぜ2号【下り】3号【上り】」と共通運用が組まれていました。

乗客のためと言うよりも運用する側の都合の車内

14系寝台車の特徴は、寝台幅が52cm→70cmに広がったことはサービス改善ですが、省力化については、比較的簡素な方法で実現しています。
すなわち、中段寝台を上限させることで、万年天井を二つ重ねるというイメージです。
1972-01_国鉄線(s47) - 35
国鉄線 1972年1月号から引用

当時の寝台列車は、A寝台の場合、
  • 座席を引き出してベッドにする
  • 上段のロックを外して、座席の背ずり付近に下ろす。
  • 袖仕切りを引き出す【20系の場合】
  • 布団・毛布、カーテンを設置
と以上の流れになるのですが、熟練した乗務員でもかなり時間はかかったようです。
B寝台の場合は
  • 中段寝台のロックを外して、ベッドを作る。
  • 背ずりを押し込んで平面にする
  • シーツ及び、毛布、枕、カーテンの設置
と、A寝台と比べると作業量は少ないのですが、定員がA寝台の倍54人あるのと、2両ないし3両を設営するようになっていたかと思います。
結果的には、乗務員の負担軽減というか、合理化という国鉄側の理由も大きかったのではないかと思われます。

簡素化された食堂車と、万年天井のA寝台車

当時は特急には食堂車が必ず連結されるという不文律がありましたので、当然のことながら食堂車も連結されたのですが、室内は20系に見られたような内装ではなく、583系電車に見られた食堂車とほぼデザインが共通となっており、ブラインド内蔵の窓が採用され【当然ながら食堂車の窓も小さなものとなった】、椅子もFRPの椅子で安っぽさが強調される結果となりました。
下記画像は、583系寝台電車の画像JNR_sashi581-19_syanai.jpg
画像 wikipediaから引用


のり心地が悪化した連結器と、運転技量の低下

14系寝台車は、12系座席車をベースに設計されたため、12系と共通の部品が使われていました。
特に連結器は、昭和40年頃に開発された下記のようなゴム緩衝器が使われました。
20系時代は、バネ緩衝器しかなかったので、バネ緩衝器と油圧緩衝器を交互に繋ぐことで、衝撃吸収力を大きくしていたものと思われます。
ただ、ゴム緩衝器は、最初から圧縮してあるので、ある限界点を超えると一気に元に戻ろうとするため、引き出しなどを上手くしないといきなり動き出す・・・という乗り心地が悪くなるデメリットがありました。
運転技量の低い機関士にかかればたちまち乗り心地の悪化は避けられなかったかと思います。
結局この乗り心地の改善には、新しい緩衝器の開発を待たねばなりませんでした。
詳細は、弊blog 緩衝器のお話 (寝台車の乗り心地のお話)をご参照ください

a0091267_23501259.jpg
日本製鋼所技報 No.66(2015.10)鉄道製品の歩みと将来展望のPDFから引用させていただきました。


まとめ

昭和47年に導入された、14系寝台は、旅客サービスの改善という点も大きかったと思いますが、部品の共通化、設計の共通化などが目立つ車両であり、利用者の都合よりも運営者側の都合が優先するそんな車両であったかと思います。
こうした方針が変更され、利用者本位の形になっていくのは、国鉄改革が本格化する昭和59年頃まで待たねばなりませんでした。
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国鉄があった時代 JNR-era
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寝台特急の誕生と新型寝台車の計画

電車寝台の誕生で陳腐化した20系客車

世界初の電車寝台は、昭和42年10月のダイヤ改正で、「特急月光」で運行を開始しましたが、この電車は昼夜兼行の車両という特殊性から、一等B寝台(等級制廃止後はA寝台開放室)のベッドを3段化したもので、下段は1m以上、中・下段も天井が低い蚕棚のようなイメージは有るものの70cmの寝台幅は魅力的でした。
当時の二等寝台(等級制廃止後はB寝台)は52cmしかなくて、利用者からは強い不満が出ていたのでした。

3.png

国鉄線(s49)から引用


昭和45年まで増備が続けられた20系客車

20系客車は昭和45年まで製造が続けられました。
昭和45年製造の「あけぼの」用から、電源車の電源が自動運転できるようになりました
この自動運転はすでに製造された電源車にあっても改造で設置されることとなり、無人運転が実現したのですが、手当だけが既得権益として残ってしまって、それが、後年、新聞を賑わしたブルトレヤミ手当問題なのです。
こうして、20系がここまで増備され続けたのは、運用の兼ね合いもあったかもしれませんが、それ以上に輸送力を確保したかったといるのではないでしょうか。
B寝台車で定員が54人ですから。10両で540人を運べるわけですから。
これが40人程度の人数になると同じ10両編成でも140人も少なくなってきますよね。

12系をベースに誕生した、新型寝台

新幹線が岡山まで延伸開業し、又国民所得の向上、日本人の体格向上などでさすがに52cmの寝台車は、狭いと言う声が大きくなってきました。(前記図2)
そこで、国鉄では12系客車をベースにした寝台車を試作することになりました。
これが、14系寝台車でした。
寝台車の幅は、電車寝台、上中段と同じ70cm幅となり、車体長さは1両あたり1.3m伸びましたが、定員は48人と6人減ることになりました。
最大のサービスアップは寝台幅ですが、省力化も考慮され、B寝台の、中段寝台並びにA寝台の上段寝台を自動昇降装置付としました。
万年天井が座席の上に残る形となりましたが、寝台幅が広くなったことは利用者には好評をもって受け入れられました。
なお試作車として製造された車両は、急行瀬戸で試用されることとなりました。

急行瀬戸で試用される新型寝台

試作された14系寝台車は4両ずつ急行瀬戸2号(東京基準)急行瀬戸1号(宇野基準)に組み込まれることになりました。
当時の急行瀬戸は2往復(1往復は、旧列車名、さぬき)走っていました。
当時、試用された瀬戸の編成は下記の通りです。
キャプチャ
結局、興表裏を持って迎えられた急行瀬戸ですが、昭和47年のダイヤ改正では、晴れて特急に格上げされるとともに20系客車となり、再び52cmの狭い寝台に逆戻りしてしまいました。


まとめ

日本人の体格向上などもあって、戦前から狭いと言われてきた52cm幅の寝台はいよいよ不評となり、飛行機や高速道路など選択肢がない状態でしたので、安易に定員を減らすことは出来なかったであろうと思われます。
実際、新幹線が博多まで開業してからでも、特急あさかぜ等は連日90%という乗車率を誇る列車が多数走っていたわけで、寝台列車を走らせるだけの需要があったわけです。
また、定員も1両54人の車両にほ50人程度が乗車していたわけですので。如何に効率が良い列車で会ったかと言うことになります。
昭和46年当時の寝台料金は、A寝台個室5400円、A寝台解放室 3800円~4200円(上段・下段)B寝台 1100円~1200円(下段のみ1200円)ちなみに電車寝台は1300円~1600円(下段のみ1600円)
座席車は指定席が300円、グリーン車が 宇野まで乗車するとして2600円ですので、B寝台車が国鉄にとっては美味しいか判っていただけるのではないでしょうか。
54人定員で90%の乗車率とすると、54*0.9=48.6四捨五入して49人
49人で計算しやすいように上・中段の寝台料金として計算すると、49*1100=53900円
ちなみに、A寝台ですと定員が28人、乗車率を同じく90%として
28*0.9=25.2四捨五入して25人
25*2600=65000円
グリーン車は定員が48人ですので、同じく90%の乗車率として
48*0.9=43.2 四捨五入して43人
43人全員が東京~宇野まで乗り通すとして、43*2600 111800円ですが
2等車の場合寝台車をとれなかった場合もありますので、全員が東京~宇野まで乗るとは考えにくいのでもう少し金額は減るかもしれません。
最後に、普通車の場合ですが、同様に東京~宇野まで乗車するとして、指定席料金は300円ですので
80*300=24000しかなりません。
このように考えると施設利用料としての寝台料金は国鉄経営的には収益性の高い列車であったと言えそうです。

東北本線における対北海道輸送の翳(かげ)り

増備され続ける寝台電車(サロ581誕生)

昭和42年に誕生した世界初の寝台電車は、好評を持って迎えられ、特に1m幅の下段寝台は、親子連れには好評であったと思われます。
さすがに3段では、中段の圧迫感は半端ないのですけどね。
九州地区での成功を受けた寝台電車ですが、50Hz/60Hz共用の変圧器が開発されたことから、電動車はモハネ583・582となりました。
これにより、対北海道輸送の強化を含めて、東北方面に、寝台電車が増備されることになりました。
寒冷地の東北線での利用を考慮して、耐寒耐雪設備が強化され、外観では、先頭車が警笛シャッター付になった点が特徴と言えましょう。【このとき増備されたクハネ581が、その後大挙して関西方面に移動したため、寝台定員の多いクハネ583が東北方面に残りました。】
東北線投入に際して、検討されたのは優等車の有無でした。
後述するように、昭和46年には東京対札幌の輸送力は4倍もの差を付けられるのですが、計画当当時【昭和43年頃】では、飛行機の利用もあるが定員も少なく、富裕層の1等車利用もあることから、優等車は必要と言うことで、1等車【グリーン車】が連結されることとなりました。
天井が高くて独特の雰囲気でしたが、どことなく間延びした感が有ったのは、カーテンではなく、ベネシアンブラインド【近畿車輛の特許だったかな】も多少なり巴今日しているかも知れないですね。

当時の飛行機は、定員も少なかった(100名~120名程度)ことから、長距離の利用も比較的多かったとようですが、実際に昭和43年当時で東京~札幌間には1日18往復の便が運行されていることに少し驚かされます。
運輸白書から引用
sss.png


東北本線では15両編成が検討されて、クハネ583誕生

昭和44年頃、東北本線では、寝台電車の15両化が計画されることとなりました。
このとき実は問題になったのは、電動発電機の容量で、クハネ581の160KVAでは、十分な容量が取れないこと、東北線の輸送需要が活発なことから、電動発電機を床下に、コンプレッサを助手席下に再配置し、運転台後ろに機械室を客室に転用した車両が開発され、クハネ583という新たな形式も起こされました。
定員の増加はありがたく、東北地区のクハネ581は九州地区に転属と言う措置が取られることとなりました。

1280px-Kuhane583-8.jpg
画像 wikipedia
ただ、15両編成は幻に終わることになりました。
と言うのも、北海道(千歳空港)と東京(羽田空港)間は、1時間20分で結ばれることとなり、昭和46年には旅客数が252万人(国鉄は65万人)と圧倒されてしまうこと画素の原因でした。


対北海道への輸送は昭和46年には飛行機が圧倒

また、北海道内の移動でも、昭和30年代後半には、飛行機の台頭があり、鉄道に対する強力なライバルとなっていました。
昭和37年の国鉄線という部内向け雑誌の「座談会・開発業務の現状と今後の諸問題」という記事の中で、夏季のような記述が見られます。
飛行機に一等旅客を取れらそうな勢いであると・・・
飛行機ですが、北海道には北日本航空という会社があって、釧路、函館、阿寒に路線を持っております。このうち釧路線は飛行場が整備されていないで、天候がちょっとでも悪いと離着陸できないために儲かっていないようです。しかし函館線は伸びておりまして、北海道の一等客はほとんど飛行機にさらわれそうな形勢です。その原因を当ってみると、こっちは運賃が2260円に刻し向うは2500円で、12月1日から3月31日までは復路を三割引するというのです。そういうことからお客を取られているわけです。(原文まま)
既に、昭和37年頃から、旅客の飛行機への転移は始まっていたことが伺えます。
そして、昭和45年の万国博覧会以降、可処分所得の増加と相まって飛行機の利用も加速し、前述の通り、対北海道に関してのシェアは昭和46年には4倍近くも引き離されてしまったことになります。
ここに、北海道へのメインルートは既に鉄道では無く、飛行機に委ねられつつあったと言わねばなりません。

その後、国鉄の大幅な運賃値上げなどで国鉄離れは深刻化し、東京対北海道に関しては飛行機が一般的となり、列車の利用はそのシェアを限りなく落としていくこととなりました。


利用者は、より速い乗り物、より快適な乗り物を選択するということ

ここで注目しなくてはいけないことは、交通手段というのは所要時間が短ければ多少高くとも選択されるということです。
前述の北海道の函館~札幌間の飛行機の例は、それを語っています。
国鉄が当時既に脅威に感じているわけです。
いくら国鉄が陸上輸送の王者であるとしても既に長距離にあっては飛行機という存在は無視できなくなっていたわけです。
現在でも対東京と言う視点では、新幹線では、東京~広島が鉄道が優位になる限界点で有り、それ以上になると飛行機が有利になってきます。
東北であれば、やはり青森が新幹線有利と言えそうです。
15時間も20時間近くも列車に乗って移動するのは、現在の時流では乗ることを目的とした列車でないとその存在意義は少なかろうという話になります。
最も、寝台列車の場合は7時間程度は睡眠時間として考えればその分は所要時間として考慮しなくても良いとすれば、15時間では実質8時間程度【前後4時間程度】であり、これでも長いと感じるのではないでしょうか。
そう考えていくと、現在の寝台列車もしくは夜行座席列車が生き残る条件は
  • 飛行機の最終便よりも遅く出発
  • 飛行機の初発便よりも早く到着
この2点が守れることが絶対条件と言えそうですね

続く

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世界初の寝台電車誕生

高度経済成長と鉄道輸送

昭和30年代から始まった高度経済成長は、公害問題という社会的問題を抱えながらも急激に発展していきました、国民の所得は増加し、自家用車の保有率も増加し、全体の交通量も増えていきました。
それに伴い、交通戦争と呼ばれるほど交通事故による死者も増加し、毎年最悪ベースを更新するというあまり好ましくない状況が続いていました。
下図は、昭和昭和52年度の運輸白書から引用したもの。
fig2-1-25.gif
昭和50年の値上げの影響で昭和50年度以降減少傾向に入った国鉄と、自家用車の普及で衰退しているバス事業を除けば、全体のパイが広がっていたことも理解していただけると思います。
今回は、寝台電車が誕生した当時の話ですので、特に昭和42年ころに注目していただこうと思います。
下記は、昭和55年の運輸白書なのですが、昭和50年以降は急激に国鉄の輸送量は減少しますが、昭和40年から45年ころまでの旅客輸送量は大きく右肩上がりになっているのが理解いただけるかと思います。
fig2-2-1.gif
この、輸送需要が旺盛な時期に、世界初の寝台電車が誕生しました。
すなわち、昼間目的地まで走って、そこで滞泊するのではなく、そのまま夜行列車で返る。
その後、再び昼の列車で下る。
これにより、列車の有効活用を図れるということで、計画されることになりました。
単純計算すれば、夜行列車に2本の編成、昼行列車に2本の編成が必要になるものの、寝台・昼行兼用電車であれば、2本だけで済むこととなり、これに予備を入れても3本でよく、さらに、待機させる留置線も少なくて済みます。

元々は急行用で計画された寝台電車

星氏の回想記などで読まれた方も多いかと思いますが、部内で当初検討されたのは急行列車としてうんようすることであり、交直流電車なのでパンタグラフの部分は低屋根にせざるを得ないので50人程度になるが止むをないとして計画されたそうです。
イメージ的には、前頭部は153系、側面は10系寝台を合体させたようなイメージでしょうか。
しかし、実際にダイヤを想定して検討していくと、急行列車では折り返しの整備時間がとれないこと、が判明したため、改めて特急で検討することとなったそうです。
特急で夜間だけならまだしも、昼間も使うとなると2等寝台の設備というわけにもいかず、検討した結果、開放A寝台(当時は1等B寝台)を3段化して定員を確保するとともに、向かい合わせで特急らしくないと言われそうですが、寝台特急のA寝台(1等開放B寝台)並みの設備ということで押し切る形となりました。
キャプチャ
結果的には、昼間の定員が最も多い車両で座席定員60人、寝台定員45人と大幅に減ることになりました。パンタグラフがある車両にあっては、低屋根部分は2段寝台になる上、クーラーを床上に置くことから、寝台定員は36人と非常に少なくなってしまいました。当時のA開放寝台(1等開放B寝台)は定員28人
この辺は国鉄も思い切ったと思うのですが、定員が減少する分に関しては、電車寝台料金という新しい料金を設定するとともに、サービス向上策として、A寝台車並みに浴衣のサービスが行われることになりました。

画期的だったサービスと不評だった昼間の運行

世界初の寝台特急電車は、新大阪~博多間の月光と、新大阪~大分間のみどりに運用されました。
昼も夜も折り返し使うというよりもかなりゆったりとした運用が組まれており、
新大阪 23:30→博多   9:20    博多 19:45→新大阪    5:45
新大阪   9:30→大分 19:35 泊  大分   9:30→新大阪  19:47 23:30の月光で折り返し
配置区は南福岡電車区でしたので、月光で戻ってきた時に、整備する時間に充てていたわけです。
当初は、2等寝台車が従来の2等寝台と比べて大幅にグレードアップしたので1等寝台の連結は見送られたのですが、東北特急での運用で、1等車は必要と言うことで、リクライニングシートを開放式A寝台に変換できないか試作も行ったようですが、上手くいかず1等座席車として昼間も夜間も運用されることとなったようです。
1280px-JNR583seat.jpg
画像 wikipedia
特急としては、役不足の向かい合わせ座席
1280px-West_Japan_Railway_Company(JR_WEST)_Night_Train_Express_KITAGUNI_4.jpg
画像 wikipedia JR発足後にリニューアルされている。

JR発足後、JR西日本がきたぐに用に、モハネ583を改造して、2段寝台化を行いましたが、国鉄時代にはついにA寝台は誕生することはありませんでした。

新幹線連絡を意識して考えられた塗り分け

583系電車は寝台列車としてのイメージとともに、新幹線連絡という意識付けがなされていたため、先頭車の運転席は0系新幹線をイメージできる、角張った窓となり、また塗り分けも新幹線を意識して、昼行特急の赤帯に対して青帯【青15号と呼ばれる20系客車と同じ色】で、なおかつ青色の範囲を大きくすることで、夜行列車のイメージをつけたとも言われています。
クリーム色も若干白っぽい色に変更されています。
結果的に、その後の昼行特急電車もボンネットに変えて、このスタイルが踏襲されることとなったのは、皆様もご存じのとおりです。
JNR_EC_TNc581_side_view.png
画像 wikipedia

新幹線連絡の列車として誕生した背景は?

当時は、飛行機の利用は一般的ではなく、現在のようにテレビ会議システムのようなものも充実していませんでしたので、長距離出張などには寝台列車の需要は現在以上に多くありました。
特に、対九州の場合新幹線で新大阪までショートカットすれば、単純に4時間捻出することができます。
東京を20:00に出発すれば23:10新大阪に到着しますので、それを受けて月光は出発、翌朝9:10には博多に到着しますので、博多での会議に間に合う計算となります。
同様に、新大阪に5:45に到着する寝台電車は、6:00始発の新幹線に接続し、9:10には、東京に到着することができるため、ビジネスには十分需要のある列車で有ったと言えます。
実は、現在でも、寝台列車を活かすとすればこの方法が活きてくることになります。
すなわち、新大阪で最終ののぞみを受けて、新大阪から博多・熊本・広島等に出発する夜行列車という構図です。
飛行機の最終便より遅く出発し、飛行機の初発便より先に到着する列車で有れば、移動費を節約したい人たちには十分な潜在需要を引き出せる可能性があるのではないでしょうか。
寝台列車に固執してしまうと、本来の潜在的な需要すらも見落としてしまう事にも留意する必要があるのではないでしょうか。

続く

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プロフィール

加藤好啓(blackcat)

Author:加藤好啓(blackcat)
みなさま、こんにちは。日本国有鉄道研究家、鉄道ジャーナリスト加藤好啓です。
地方鉄道を活性化することで、地方を再生できないかと言うことで研究とともに提言活動などもさせてもらっております。
将来は地方政治家としての転身を目指しています。

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