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国鉄が全面協力した公安官を題材にしたテレビ番組の話

久々に更新させていただこうと思います。

実はblogの統合を考えており、似たようなblogは統合の上、別の記事に特化したblogにして行こうと考えております。

まだ、時期は決定していませんが近いうちに決定したいと思っております。


昭和37年6月から昭和42年3月まで放映されたテレビ番組があった

さて、今回はちょっと面白い記事が有りましたので、そのお話をさせていただこうと思います。
昭和37年6月から半年間のブランクを経て昭和42年3月まで国鉄の全面的な協力で製作されたそうで、このテレビ番組に関するこぼれ話として、国鉄の部内誌、国鉄線昭和43年1月号にこぼれ話が掲載されていましたので、少し書かせていただこうと思います。

国鉄の全面協力で行われた番組

鉄道公安36号という番組が、テレビ朝日(当時はNET)で放映されたそうです。
鉄道公安官36号、当初のタイトルはJNR公安36号だった

昭和37年6月~昭和38年3月までは、JNR公安36号というタイトルだったそうですが、その後スポンサーが変わり、昭和38年6月から昭和42年3月まで放映されたそうです。

オープニングでは、「地球から月への距離四倍以上、一日に15O万キロ走る国鉄の、旅客の安全と犯罪防止のために、日夜、身命をとして、勇敢なる活躍を続ける私服公安職員の物語)」というナレーションで始まる番組ですyoutubeを検索してみたら、下記の動画がありましたので併せて貼っておきます。


さて、ここで国鉄線昭和42年1月号の記事から少し面白い話を抜き出してみたいと思います。

国鉄が全面協力と言うことで、事前に制作会社も事前に台本を持ってきて色々打ち合わせをするらしいのですが、何だかんだと面白い話が有ったようです。

  • テレビ番組では、公安室がどんどん増えていったというお話し
公安室というのは当然のことながらある程度大きな駅にしかないのですが、物語のストリー上必要と言うことで、本来は設置されていない架空の公安室が、番組の度に増えていったとか・・・。
  • 公安官の拳銃を盗め・・・
    流石にこの台本の時は、国鉄側も反対したそうで、制作会社側では鉄道公安官が拳銃を盗まれてそれが犯罪に使われるという台本だったそうで、まぁ、これは現在でも洒落にならないのですが、公安官の拳銃を盗まれるのは具合が悪いと言うことで、台本を変更したとか・・・
  • 公安本部長出演
    最近は、社長自らがテレビに出たりというのも結構普通ですが、当時は中々一般の人がテレビに出たりというのは無かったのですが、この記述によると流石に本人は緊張して、カンペを見せ長ら苦労したとか・・・・。
    最近の人はテレビ慣れしているからその辺は案外アドリブでやってしまいそうですよね。

ということで、私自身は流石に知らないのですが、面白い記事でしたのでアップさせていただきました。

個人的には、石立鉄男が出ていた、「鉄道公安官」という番組の方が懐かしいです。

改めてオープニング見ていますと、根府川橋梁を渡るEF65牽引のブルトレとか本当に懐かしい風景が出てきます。
OP/EDがyoutubeで出ていましたので、こちらも併せてアップさせていただきます。


余談ですけど、関西人を自称する?私としては、「部長刑事」という番組が印象に残っていますね。
ちょっと不気味なオープニングはトラウマになりそうですが。汗


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ブルートレインと絵入りマーク

寝台列車とテールマーク

最近は、ブルートレインと呼べる夜行列車がサンライズのみとなり、ブルートレインと呼ばれた20系客車を筆頭とする寝台列車はことごとく消えてしまいましたが、ブルートレインに絵入りマークが採油押されたのは何時頃だったか覚えていますか?
ちなみに、電車のヘッドマークは昭和53年10月の改正からだそうです。
もっとも、電車の場合はボンネット型への導入は当初は見送られていましたが、やがてボンネット車にも広がっていきましたが、ブルートレイン客車も、当初は14系24系は絵入りマークになりましたが、20系客車は国鉄時代は最後まで絵入りになりませんでしたが、JR発足後は24系客車などのマークを参考に絵入りマークが設けられたようです。

20系出現当初は、字幕のみ

20系客車は、特急こだま【151系】と同じ昭和33年に誕生しました、151系が万全の体制を取るため1か月試運転に充てたため実際のデビューは11月になりましたが、20系客車は一足早く10月から営業運転に就くことになりました。
20系客車では、車両の両端に「あさかぜ」の文字を入れて、扡色を水色にしていました。
その後の「さくら」は、地色をピンクだったかと思います。
みずほは、下記のように水色の黄文字でしたが、富士以降はシンプルに白地に青文字になりました、
昭和38年7月号の鉄道ピクトリアル表紙をキャプチャしたものです
画像は、昭和38年7月号の鉄道ピクトリアル表紙をキャプチャしたものです。

14系客車からは、テールマークが巻き取り式に

14系寝台車は12系客車をベースに寝台車の幅を52cm→70cmに拡大した車両で、省力化が図られ、寝台の自動昇降装置など新機軸が盛り込まれていました。
また、分散電源方式になったことが大きく、従来の客車と異なる点でした。
また、従来の内側から取り替える方式から、簡易な愛称表示幕になりました。
14系客車は583系等と同
じ手動式の表示幕であったそうです。
その後、北陸トンネル事故の反省から再び集中電源方式に戻され、24系が誕生しますが、一部区間では引き続き分割が必要な運転区間があることから、二段式寝台として14系15形が誕生した以外は基本的には24系を中心として増備されることとなり、二段式の24系25形、国鉄時代の標準的な寝台車として君臨することになりました。
これらの車両は、当初は文字だけの味気ないものでした。
昭和50年には、ボンネットを形電車を除く、特急電車に絵入りマークが表示されましたが、寝台列車は引き続き、文字だけの表示が続きました。
当時は、ヘッドマークも東京機関区の車両以外は作業数が増えるとして着用を拒否した時代であり、何とも味気ない雰囲気の時代が続きました。
そんな中、昭和54年7月1日から寝台列車にも待望のテールマークが設置されました。(私のミスで昭和57年と書いておりましたので訂正いたします。複数の資料で確認済)
昭和4年に、特急富士・櫻にテールマークが制定されて50周年となることを記念して7月からブルートレインにも絵入りのテールマークを作成したとされています。
国鉄線 昭和54年7月号の記事から引用

下記は、当時の鉄道雑誌の付録として付いてきた、寝台車のテールマーク一覧をキャプチャーしたものです。

余談ですが、国鉄末期、昭和60年頃20系の臨時特急として、日本海・明星などが運転されましたが、この列車には、14系以降の客車同様の絵入りマークが掲出されていました。
これらは、客車区のオリジナルだったようで、何種類かのバージョンがあったようです。

当時の鉄道雑誌の付録として付いてきた、寝台車のテールマーク一覧をキャプチャーしたものです
新たに製作された、紀伊は、那智の滝を表現しているらしいです。
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大阪駅にマイナス1番線があった?

今日は、大阪駅のトリビアなお話をさせていただこうと思います。
現在の大阪駅は、環状線を1番線として11番線までのホームがありますが、かつては現在ルクアの部分もホームが有ったことを覚えておられる方も多いかと思います。

かつては、大阪環状線専用ホームが無かった

今回は、大阪環状線ホーム、現在の1番線・2番線に関するお話です。
西成線・城東線と呼ばれた大阪環状線が誕生するまでは、現在の環状線電車は、当時の城東線電車【内回り線】並びに、西成線【外回り線】は直接、現在の福知山線ホーム【3番線】に発着していました。

0番環状線ホーム誕生

昭和34年12月21日になって、内回り電車用のホームとして、0番線が誕生します。
昭和31年の国鉄部内誌 交通技術(s31)3月号を参照しますと、昭和35年までに0番線を設けて大阪駅ホームの緩和を図ると書かれています、
当時の資料から引用させていただきます。
 大阪駅電車折返線2線を福島方に設置する。なお35年度までには大阪0 番線を新設して、大阪駅ホームの不足を緩和する必要がある。  
 各駅有効長延伸、城東・西成各駅の乗降場は100m程度のものが多いので、輸送 人員の増加に応じ有効長延伸の必要がある。なお将来相当期間環状電車運転の時 隔の短縮は不可能であると予想せられるので、新駅および改良工事を行う駅は、 将来8両運転が可能であるように考慮する。
と書かれています。
これにより、昭和34年12月には0番線誕生、しばらくはこの時代が続くことになりました。
この時は、0番線を内回り電車(旧城東線)を1番線【現在の3番線】を外回り電車(旧西成線)が利用していたようです。
後述しますが、2番ホームが長距離列車の発着ホームとなるので、混雑が大きかったと言われています。

大阪駅の混雑緩和のために更にホームを増設

万国博覧会を昭和45(1970)年に控えた昭和42年3月7日に、大阪駅の改良工事計画が理事会で決定しています。
工事概要は以下のとおりです。
 大阪駅の利用客は、遠距離、近距離とも増加が著しく、現状では、1番線【現在の3番線】を環状線2番線【現在の4番線を福知山線・山陽線・四国方面の列車が使用しており、ホームが環状線と共用となるため、一部列車を5番線【電車線】から発車させるなどの問題があり、更に今後、万国博覧会の開催などで、その利用者が1日100万人に達することが考えられることから、抜本的な改良工事を行うこととなったもの、今回の計画は以下のとおり

  • マイナス1番線を新設し、環状内回線にあてる、
  • 東口通路の拡幅及び出改札口の改良、
  • 中央コンコースを拡幅しオーブンカウンターの出札室を新設すると同時に中央コンコースを整備
  • 支障業務機関の移転(駅舎濃一部を取り壊してスペースの確保)
等の改良工事が行われることとなっている。
総工事費19億8000万円、昭和42年4月着工、45年9月完成予定。(マイナス1番線使用開始は45年3月)
参考:国鉄があった時代、昭和42年

駅舎の一部を削って新たなホームを設置

ホームの設置にあたっては、下図のように駅舎の一部を取り壊し、そこにホームを設けるもので、支障する建屋の中には、土産物店等が入っていたため、大阪駅地下1階に移転することになったと書かれています。
osakaloop_0.jpg
なお、新ホームの使用は、3月12日からだそうです。
 鉄道ピクトリル昭和45年5月号から引用

大阪環状線、環状線ホーム使用開始【現在の大阪駅ホーム1・2番線】 3/12
弊サイト国鉄があった時代 昭和45年前半編参照

なお、国鉄部内誌などではマイナス1番線と表記がなされていますと、工事中には確かにマイナス1番線と言う表示がなされていたようですが、開業前には環状1番線・環状2番線に変更されています。

現在は大阪駅改良工事に伴い、環状線が1番・2番線を名乗っているのは皆様よく御存じのとおりです。

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本州・四国連絡橋のお話し諸々

計画された、本州と四国を結ぶ鉄道ルート

本州と四国を結ぶ吊り橋として、現在鉄道が通過しているのは、南備讃瀬戸大橋、北備讃瀬戸大橋を含む瀬戸大橋が唯一ですが、計画当初は、明石海峡大橋も鉄道橋として建設して、既に開通している、鳴門大橋を経由して四国と関西を結ぶ路線も計画に入っていました。
色々と調べていますと、興味深いblogを見つけました。

南あわじ市の市政と県病について

と言うタイトルの記事で、と言う記事がありました、こちらを参照しますと、鉄建公団としては技術的には、可能であったと書かれています。

当該ブログから引用させていただきます。

その後、昭和50年(1975年)8月、三木内閣の下で、改めて合意がなされる。 そのとき、「児島坂出ルート(瀬戸大橋)は鉄道・道路併用橋として建設し、神戸鳴門ルート(明石海峡大橋)と尾道今治ルート(しまなみ海道)は部分的な架橋工事に着工する」と、最終的に取り決められた。 この時点では、まだ明石海峡大橋の鉄道敷設については、表向き「保留」だった。 しかし、60年(1980年)8月、明石海峡大橋は正式に「道路専用橋」と決定されてしまう。

実は、当時の公団の技術陣は「道路・鉄道併用橋でも充分に可能」だとしていた。 ところが、「吊橋構造での4キロ近い長大橋(明石海峡大橋は3900m)の併用橋は、世界的に例がない」、その点、瀬戸大橋は距離は長いが、途中に小島が連なっていて、明石海峡大橋ほどの長大橋は必要なく、工事費も安くなるという経済的理由などによって、瀬戸大橋は「道路・鉄道併用橋」、明石海峡大橋は「道路専用橋」になってしまった。

800px-Akashi_Bridge.jpg

明石海峡大橋 画像wikipedia


結果的には、1973【昭和48】年の石油ショック以降経済成長は終わりを告げ、こうした建設計画も一気に見直されることになってしまいました。

再び建設が決定されたときは、上記blogに書かせていた頂いているように、明石海峡大橋は建設費が抑制できると言うことで、道路専用橋として建設されることになるのでした。

本当に経済的理由だけだったのか?

とここまで書いて、本当に経済的な理由だけだったのか?
私個人の記憶では、技術的な問題もあったような記憶もありましたので、もう少し調べて見ますと、更に専門的なblogが見つかりました。

いやぁ、正直調べて見ると、本当に色々な資料が簡単に参照できる時代になったものです。

正直脱帽です、ありがとうございます。

このblogによると、大鳴門橋建設途中で、鉄道併用橋を止めようと言う意見もあったようで、経済的にも技術的にも明石海峡大橋の併用橋は難しいと言う結論に達したとされています。


明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等


この記事を参照しますと。
技術的にも難しっかったと書かれています。少し引用してみたいと思います。

これだけだと、政治的、経済的理由で鉄道の建設を取りやめたように見えるが、前述のとおり技術面でも厳しい部分があったようだ。

伊東 鉄道をやめたのはどんな理由なのですか。当初、三橋とも鉄道が併設されるという話でしたね。

井上 西は違っていたと思います、鉄道はなし。

伊東 真ん中と明石海峡。

井上 それで、真ん中ももうできましたし、鉄道もできていますが、東の明石海峡をやめたのは、やはりあれだけの長大吊り橋になると、 たわみが大きくて、吊り橋のジョイントというのか、あそこで非常に危険があるというようなのが最後の決め手になったみたいでやめましたけれども。
伊東 技術的な理由で。

井上 ええ。まあ、克服できないものではないと思いますがね。あそこしかないとなったらやるでしょうけれどもね。鉄道もあそこはあきらめるということで、割にすんなりといきました。

ということで、国鉄としても技術的にも厳しいこと、更には国鉄の財政的な部分もあったと思いますが、結果的に明石海峡大橋の鉄道併用橋は諦めたようです。


狩勝実験線では走行安定実験が行われたと言う事実も知って欲しい


結果的には、瀬戸内海における鉄道併用橋は、高松と岡山を結ぶ、備讃瀬戸大橋だけになりましたが、吊り橋における走行安定実験が昭和45年に行われたという事実も記させていただこうと思います。

本州・四国間つり橋走行安定実験始まる 10/13

国鉄が日本鉄道建設公団の委託をうけて研究、開発を進めている本州’四国間つり橋の走行安定実験が狩勝実験線において開始された。
 本州・四国間のつり橋は鉄道の走るつり橋としてはわが国初めてのもので、種々の解決すべき問題を抱えている。今回のテストは「角折れ区間の走行試験」とよばれるもので、レールのゆがみとその影響を探ろうとする試みである。すなわち、つり橋の橋脚の間隔が長大化すると列車が走るとき橋の中央部分が大きくたわみ、支持している橋脚の部分ではレールが「へ」の宇型になる。これが「垂直方向の角折れ現象」で、ここを高速で通過する列車は、はねあがる恐れがある。
また同様に、橋げたが強風などで左右の方向にゆがむのが「水平方向の角折れ」と呼ばれ脱線の原因にもなる。
 今回の実験はこの垂直・水平方向の角折れが車両の走行安定性にどのような影響を与えるかを探り出そうとするものである。実験は10月30日まで各種の条件の下で行なわれ今年度の実験は終了するが、来年度も引続いて行なわれる予定である。
架橋に際して、狩勝実験線でこうした試験が行われたことはあまり知られていないと思われますので、ここに紹介させていただきます。


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国鉄気動車の塗色、戦前に試験塗装が行われたという話

 戦前は、客車はもちろん、電車も褐色【ぶどう色1号】と呼ばれる、茶色の濃い色が採用されていました。
ぶどう色1号
戦前は、蒸気機関車の牽引による列車が殆どで、明るい塗装の車両などを導入することは考えられていませんでした。
気動車も、導入当初の車両はぶどう色1号だったのですが、試験的にキハ42000等に試験塗装を行ったと、国鉄の部内誌、交通技術という雑誌にでていましたので、ここでしょうかいさせていただこうとおもいます。

を参照していますと、面白い記事を、見つけたのでアップさせていただきます。
戦前の気動車に試験的に、特別な塗装を施したという記事です。
気動車の塗装
この記事によりますと、キハ42000が4両製造されて、西成線(現在の桜島線)と武豊線に配属され、試験的に特別の塗装が行われたと書かれています。
それによりますと、西成線配属のキハは、濃褐色と黄褐色の塗り分け、武豊線配属車は、濃コバルトと灰白色との塗り分け出会ったと書かれており、西成線の塗装は、その後モハ52の流電旧塗装に近いものであったと思われます。
また、武豊線配属車は横須賀線のスカ色の基本となったようです。

もっとも、戦前は同じ国鉄といえども関西と関東では電車の仕様自体が異なっていた時代で、戦後も同じ湘南電車でも、関東が湘南塗りということで、オレンジと緑を採用したのに対し、関西は、流電の2次形の塗り分けを逆にした、裾部がマルーン、窓回りをクリームにした、金太郎の腹掛け塗装が採用されていました。
この塗装が、湘南色に統一されるのは、昭和31年の東海道線全線電化まで待たねばなりませんでした。
なお。武豊線試験投入された、キハ43000もキハ42000に準じた内装でした。
参考になるblogが有りましたので、リンクを貼らせていただきます。


キハ四二〇〇〇
戦後の旧気動車標準塗装のキハ42000【正確には、42500ですのでデイゼル機関に換装したタイプですね。】

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プロフィール

加藤好啓

Author:加藤好啓
みなさま、こんにちは。日本国有鉄道研究家、鉄道ジャーナリスト加藤好啓です。
地方鉄道を活性化することで、地方を再生できないかと言うことで研究とともに提言活動などもさせてもらっております。
将来は地方政治家としての転身を目指しています。

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