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ブルートレインと絵入りマーク

寝台列車とテールマーク

最近は、ブルートレインと呼べる夜行列車がサンライズのみとなり、ブルートレインと呼ばれた20系客車を筆頭とする寝台列車はことごとく消えてしまいましたが、ブルートレインに絵入りマークが採油押されたのは何時頃だったか覚えていますか?
ちなみに、電車のヘッドマークは昭和53年10月の改正からだそうです。
もっとも、電車の場合はボンネット型への導入は当初は見送られていましたが、やがてボンネット車にも広がっていきましたが、ブルートレイン客車も、当初は14系24系は絵入りマークになりましたが、20系客車は国鉄時代は最後まで絵入りになりませんでしたが、JR発足後は24系客車などのマークを参考に絵入りマークが設けられたようです。

20系出現当初は、字幕のみ

20系客車は、特急こだま【151系】と同じ昭和33年に誕生しました、151系が万全の体制を取るため1か月試運転に充てたため実際のデビューは11月になりましたが、20系客車は一足早く10月から営業運転に就くことになりました。
20系客車では、車両の両端に「あさかぜ」の文字を入れて、扡色を水色にしていました。
その後の「さくら」は、地色をピンクだったかと思います。
みずほは、下記のように水色の黄文字でしたが、富士以降はシンプルに白地に青文字になりました、
昭和38年7月号の鉄道ピクトリアル表紙をキャプチャしたものです
画像は、昭和38年7月号の鉄道ピクトリアル表紙をキャプチャしたものです。

14系客車からは、テールマークが巻き取り式に

14系寝台車は12系客車をベースに寝台車の幅を52cm→70cmに拡大した車両で、省力化が図られ、寝台の自動昇降装置など新機軸が盛り込まれていました。
また、分散電源方式になったことが大きく、従来の客車と異なる点でした。
また、従来の内側から取り替える方式から、簡易な愛称表示幕になりました。
14系客車は583系等と同
じ手動式の表示幕であったそうです。
その後、北陸トンネル事故の反省から再び集中電源方式に戻され、24系が誕生しますが、一部区間では引き続き分割が必要な運転区間があることから、二段式寝台として14系15形が誕生した以外は基本的には24系を中心として増備されることとなり、二段式の24系25形、国鉄時代の標準的な寝台車として君臨することになりました。
これらの車両は、当初は文字だけの味気ないものでした。
昭和50年には、ボンネットを形電車を除く、特急電車に絵入りマークが表示されましたが、寝台列車は引き続き、文字だけの表示が続きました。
当時は、ヘッドマークも東京機関区の車両以外は作業数が増えるとして着用を拒否した時代であり、何とも味気ない雰囲気の時代が続きました。
そんな中、昭和54年7月1日から寝台列車にも待望のテールマークが設置されました。(私のミスで昭和57年と書いておりましたので訂正いたします。複数の資料で確認済)
昭和4年に、特急富士・櫻にテールマークが制定されて50周年となることを記念して7月からブルートレインにも絵入りのテールマークを作成したとされています。
国鉄線 昭和54年7月号の記事から引用

下記は、当時の鉄道雑誌の付録として付いてきた、寝台車のテールマーク一覧をキャプチャーしたものです。

余談ですが、国鉄末期、昭和60年頃20系の臨時特急として、日本海・明星などが運転されましたが、この列車には、14系以降の客車同様の絵入りマークが掲出されていました。
これらは、客車区のオリジナルだったようで、何種類かのバージョンがあったようです。

当時の鉄道雑誌の付録として付いてきた、寝台車のテールマーク一覧をキャプチャーしたものです
新たに製作された、紀伊は、那智の滝を表現しているらしいです。
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国鉄気動車の塗色、戦前に試験塗装が行われたという話

 戦前は、客車はもちろん、電車も褐色【ぶどう色1号】と呼ばれる、茶色の濃い色が採用されていました。
ぶどう色1号
戦前は、蒸気機関車の牽引による列車が殆どで、明るい塗装の車両などを導入することは考えられていませんでした。
気動車も、導入当初の車両はぶどう色1号だったのですが、試験的にキハ42000等に試験塗装を行ったと、国鉄の部内誌、交通技術という雑誌にでていましたので、ここでしょうかいさせていただこうとおもいます。

を参照していますと、面白い記事を、見つけたのでアップさせていただきます。
戦前の気動車に試験的に、特別な塗装を施したという記事です。
気動車の塗装
この記事によりますと、キハ42000が4両製造されて、西成線(現在の桜島線)と武豊線に配属され、試験的に特別の塗装が行われたと書かれています。
それによりますと、西成線配属のキハは、濃褐色と黄褐色の塗り分け、武豊線配属車は、濃コバルトと灰白色との塗り分け出会ったと書かれており、西成線の塗装は、その後モハ52の流電旧塗装に近いものであったと思われます。
また、武豊線配属車は横須賀線のスカ色の基本となったようです。

もっとも、戦前は同じ国鉄といえども関西と関東では電車の仕様自体が異なっていた時代で、戦後も同じ湘南電車でも、関東が湘南塗りということで、オレンジと緑を採用したのに対し、関西は、流電の2次形の塗り分けを逆にした、裾部がマルーン、窓回りをクリームにした、金太郎の腹掛け塗装が採用されていました。
この塗装が、湘南色に統一されるのは、昭和31年の東海道線全線電化まで待たねばなりませんでした。
なお。武豊線試験投入された、キハ43000もキハ42000に準じた内装でした。
参考になるblogが有りましたので、リンクを貼らせていただきます。


キハ四二〇〇〇
戦後の旧気動車標準塗装のキハ42000【正確には、42500ですのでデイゼル機関に換装したタイプですね。】

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国鉄が行った宅配便事業 「ひかり宅配便」

昔は小荷物輸送は国鉄が行っていた


現在、宅配便といえば、クロネコヤマトに代表される宅急便や、佐川急便、郵便局のゆうパックと言ったあたりが三強ですが。
ヤマト運輸が宅配事業に参入する前は、もっぱら小荷物輸送も国鉄がその任をになっていました。
郵便局も扱っていましたが、6kgまでであり、再配達制度も無し。
玄関に置き去り・・・みたいな配達の仕方であり、ちょっとした大きな荷物を運ぶとなると、駅まで荷物を運ばなくてはなりませんでした。
到着した場合も同様で、駅から荷物到着の電話、もしくは電話がない家庭の場合は「はがき」で、荷物の到着が伝えられ、駅まで取りに行くシステムでした。
まぁ、今から考えればなんともノンビリした時代と言えますが、昭和50年頃までの鉄道輸送のスタイルでした。

国鉄が行った宅配便 ひかり宅配便

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R 昭和60年5月号から引用

国鉄の小荷物輸送に比べて、宅急便【当時はヤマト運輸しか宅配事業を行っていなかった】は自宅まで取りに来てくれる上、自宅まで配達してくれるということで、次第に利用者が増えて行くようになり、郵便小包はまだしも、国鉄の小荷物はそれでなくともトラックに奪われていたものが更に、ヤマト運輸の参入により大きく減少することに成りました。
下の図表は、国内小量物品輸送量の推移ですが、昭和52年と比べてわずか5年で半分以下になっています。
それに引き換え、宅配業者は14倍という圧倒的な輸送量を拡充しています。
郵便小包【ゆうパック】じわじわとそのシェアを落としており、民間宅配便と並びつつあるのがご覧いただけると思います。

aaaa.jpg
国鉄線 昭和58年11月号から引用
なお、国鉄は、昭和56年には一部ヤマト運輸のパレット輸送を行うなど、完全に白旗を上げた状態だったのですが、昭和60年5月から、国鉄でも宅配便事業に参入することなりました。
ヤマト運輸の方式をほぼ踏襲した形で、自宅まで配達、差し出しは近くの代理店に差し出す方式であり、国鉄部内誌「R」によりますと、下記のように書かれています。
酒類販売店や米穀店のほか、自動車挫備工場ともタイアップ。
発足時で計8500カ所の店舗、工場と契約し、全国の三分の一、1040市町村でカバー体制ができ、今後10万店を目標に取次店を拡大する計画だ
としており、国鉄としても何とか挽回を図りたいと頑張っていたようです。
国鉄では配達をしていないと書きましたが、実際には駅からに配達もありましたが、国鉄自らが行うのではなく、国鉄と提携する荷物運送会社により配達されるもので、小荷物料金以外に配達料金がいるため結果的に割高になってしまうこともあり、あまり利用されることはありませんでした。
この新しい宅配便制度では、配達までを一貫輸送する他、先行する宅配事業者同様、酒屋や米穀店などに荷物を持ち込むことで差し出しやすくすることを狙っていました。
また、自動車整備工場とも契約したのは、国鉄だけであり、この辺は主要な酒屋とか小売店は宅配事業者に抑えられていたからではないかと考えます。

料金体系は、宅配便に準拠

国鉄の「ひかり宅配便」の料金は、第1地帯の700円 2kgから、第12地帯1900円 2kgまでの他、30kgまでとなっていたようです。
この辺は、国鉄部内誌「R」によりますと、下記のように書かれています。再び引用します。
取扱荷物の重量は、S(二キロまで)、M(10キロまで)、L(20キロまで)の三サイズ制で、需要の多い二キロまでの小口便を設けている。 料金は従来の集荷料、レール運賃、配達料をワンセットにし、値段も民間並みとした。
配達時間も短縮、東京~大阪間だと翌日、東京~北海道、九州間は三~四日くらいで配達される。
運賃は下記の通り
img312.jpg
国鉄監修時刻表 昭和60年11月号参照

結果的に1年ほどで撤退することに

当初の目標では、最終的に10万店の取次所を作ると計画していましたが、東京~大阪の翌日配達はともかくとして、東京~北海道や九州で3から4日は長く、取扱個数はかなり伸び悩んだと言います。
歴史にIFはありませんが、郵政省が59年2月のシステムチェンジに合わせて撤退せず、新聞輸送等も引き続き国鉄が担っていたならば、夜行列車と呼ばれる列車が全国を走っていたかもしれません。
結果的に、荷物輸送自体が国鉄の新会社にあっても収益源にならないことが結果的に証明されることとなり、僅か1年ほどで「ひかり宅配便」は撤退することになりました。
ちなみに、ペリカン便は、日本通運における宅配便事業であり、国鉄とは関係ありません。

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陸送屋とキセル乗車

昭和30年代、自家用車はメーカーから販売店には運転手が一台ずつ運転して配送していました。
当然のことながら、帰りは車では無いので鉄道で帰ることになるのですが、このときにキセル乗車をしている輩が多発していたということで、問題になったという記事です。
この記事によりますと、乗車券の使い回し、改ざんなどが行われていたようで、急行券などの日付などを改ざんして使っていたようなことが書かれています。
陸送屋

なお、具体的にどのような手口があったのか、下記に関連する記事がありましたので引用させていただきます。
国鉄線 昭和40年8月号の記事から抜粋です。
陸送屋
乗車券の使い回し、定期券と入場券による典型的な詐欺行為、他には、乗車券の偽造などもあるようです。


今でもそうですが、キセル乗車は、通常運賃の三倍を請求されることになります。
その根拠は、鉄道営業法第十八条と、鉄道運輸規程第十九条であり、それぞれの条文は下記の通りであります。
参考までに掲載しておきますね。

鉄道営業法第十八条
  • 第十八条 旅客ハ鉄道係員ノ請求アリタルトキハ何時ニテモ乗車券ヲ呈示シ検査ヲ受クヘシ
  • 2 有効ノ乗車券ヲ所持セス又ハ乗車券ノ検査ヲ拒ミ又ハ取集ノ際之ヲ渡ササル者ハ鉄道運輸規程ノ定ムル所ニ依リ割増賃金ヲ支払フヘシ
  • 3 前項ノ場合ニ於テ乗車停車場不明ナルトキハ其ノ列車ノ出発停車場ヨリ運賃ヲ計算ス乗車等級不明ナルトキハ其ノ列車ノ最優等級ニ依リ運賃ヲ計算ス

鉄道運輸規程第十九条
  • 有効ノ乗車券ヲ所持セズシテ乗車シ又ハ乗車券ノ検査ヲ拒ミ若ハ取集ノ際之ヲ渡サザル者ニ対シ鉄道ハ其ノ旅客ガ乗車シタル区間ニ対スル相当運賃及其ノ二倍以内ノ増運賃ヲ請求スルコトヲ得

と言うことで、正規運賃+割増運賃として三倍【条文では、二倍以内と書かれていますが、実際にはJRでは割増運賃として二倍+通常運賃を収受しているようです。

余談ですが、こうした陸送が盛んであったときに、並行して国鉄が働きかけたのが、下記のような車運車であり、クレーンを使って自動車を積み込むようになっており、下に8台、上部に2台搭載する貨車が私有貨車として使われました。

画像は、トヨタ自動車向けの試作車として製造された、シム1000形になります。
20170911_1354057.jpg
詳細は、下記の記事をご覧ください。
なお、実際に車が積載された状態は下記のような写真になります。
20170911_1354061.jpg


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観光団体専用列車のお話、事始め

昭和36年から始まったオーダーメイドの団体輸送

観光団体輸送列車は、当時の資料を探してみますと、昭和36年2月号の記事に次のような記述を見ることが出来ます。
これは、36年3月のダイヤ改正で誕生したと書かれています。
少し、本文から引用してみようと思います
申し訳ありません、私の勘違いで、南紀観光団体専用列車には、ナハネ11が投入されたと書きましたが、これはその後の九州観光団体その他では確かに寝台車を使われているのですが、南紀観光団体列車は座席車による夜行列車でした。【昭和36年3月鉄道ピクトリアルで確認しました。】
ここにお詫びして訂正すると共に、更に資料の精査を行えるようにしたいと思います。
重ねてお詫び申し上げます。

******引用開始
団体旅客の輸送は、輸送力の不足している現在の国鉄にとって非常に難かしい問題である。今後観光旅客の輸送に力を注がねばならないことは前にも述ベたが、その具体的方策の一つは団体旅客輸送方法の改善である。現在の大口団体輸送は、要員、車両、線路等窮屈ずくめの影響もあるが、多数の団体毎にそれぞれ異ったコース・時間帯を希望する関係もあって、その輸送を行うために非常な苦労を重ねている。然も、折角の申込団体の一部をダイヤが入らず拒絶している場合もしばしばである。そこで今次改正から団体旅客輸送の定形化(モデルコース化)という方法をとることとし、団体旅客が多数ある地区については、それらの団体が希望するコース・時間帯の最大公約数を持った、団体専用モデルコース列車を不定期列車として運転し、『団体の引受けが即座に出来ると同時・に、輸送力を無駄なく活用することにした。まず、今次改正はその第一歩として、
以上引用終わり
・・・と書かれており、観光団体用途宗教関係団体用として運転するとされています。
宗教関係は、創価学会輸送であり、観光団体輸送は南紀観光団体専用列車となっています。

昭和36年は2回ダイヤ改正が行われた。

なお、昭和36年にはサンロクトウと呼ばれた、白紙ダイヤ改正がありますが、実はこの年は2回ダイヤ改正が行われたようで、昭和36年の3月にも小規模なダイヤ改正が行われており、その目玉となったのが団体臨時列車の設定であったと言うことになります。
手元に昭和36年3月の時刻表がありますので、参照してみますと19:33に10番線から白浜口行きという列車が目に入ってきます。
白浜口は、現在の白浜(和歌山県)であり、昭和34年に紀勢本線が全通してからは入り込みが増えていたのでした。

昭和30年代のクルージングトレイン?

この列車は、名古屋から関西線、紀勢本線を経由して直接白浜まで運転していたようです。白浜で車両も一泊した後、翌朝は紀勢本線・和歌山線経由で京都に、京都には19:09着、20:28には東京に向けて出発していますので、前日の宿泊客を受けて夜行列車で帰るスタイルになっていました。
その後は、こうした団体旅行列車は好評で、数年後には南紀団体旅行列車は、鳥羽(二見浦を経由)するように改められています。その後は同じルートで白浜・京都を巡っており、今で言うところのクルージングトレインのようになっていました。
ただ、現在のクルージングトレインと違うのは、本当に詰め込みの団体旅行であったと言うことでしょうか。

この列車は、特急つばめ・はとに使われたスハ44が投入された。

南紀観光列車には、特急つばめ・はとで使われた、スハ44・スハフ43が投入されたのですが、投入に際して固定座席から回転式クロスシートに改造されることとなり、スハ441~8とスハフ4311~24迄の22両が南紀観光団体専用列車に充当されることとなり、6両編成×3+4両予備となったそうです。
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2枚とも、鉄道ピクトリアル1961年3月号から引用しました。

この列車のために新たな寝台車も製造された(訂正)

このときに製造されたのが、ナハネ11と呼ばれるナハネ10の改良形で24両が昭和32年に製造されました。
主な特徴は下記の通り。
  • 寝台と寝台の間隔を広げて、定員を60人→54人に減らした。
  • 給仕室を拡大して、棚を設けてリネンを収納できるようにした。
  • 洗面台が拡張【2人→3人】となりました。
  • 出入り口の小窓が開閉できるようになり、走行中はドアを閉めても風を取り入れるように改良された。
と言った特徴がありました。
余談ですが、昭和35年からは旧型客車の台枠にナハネ11の車体を載せた、オハネ17が改造名義で製造されました。
なお、団体臨時列車に投入された寝台車は、裾部にクリーム色の細帯が入れられ、一般の恣意代列車と区別されていました。
これらの車両は、乗り心地改善のため、スハ43に使われていたTR47と台車を振り替えており、台車を供出したスハ43は振り替えられた台車TR23を履くこととなり、車両はオ級に収まることとなり、オハ47に改番されることになりました。
南紀観光団体線用列車の話から大きく脱線してしまったので、この話は又別の機会に致しましょう。
時刻表でしばしの時間旅行をお楽しみください。
最後に、昭和36年時刻表からしばし、時間旅行をお楽しみください。
まずは1枚目、東京を19:33 10番線から出発します。
このときは、晩年の団体列車のように、他の列車と併結することなく単独で運転されていました。
img265.jpg
東京19:33、横浜20:02と主要駅に停車しながら、名古屋に2:55到着します。
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その後、関西線・紀勢本線へと進みます。
img267.jpg

その後、白浜で停泊した後和歌山線経由で京都に向かいます。img270.jpg
国鉄千に掲載された、観光地団体臨時列車の記事

団体臨時列車
プロフィール

加藤好啓

Author:加藤好啓
みなさま、こんにちは。日本国有鉄道研究家、鉄道ジャーナリスト加藤好啓です。
地方鉄道を活性化することで、地方を再生できないかと言うことで研究とともに提言活動などもさせてもらっております。
将来は地方政治家としての転身を目指しています。

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