旅客車の座席番号の付け方改正・・・昭和34年の部内誌の記事から

本日は昭和34年の国鉄線の記事から、座席指定者の方式を変更したと言う記事がありましたのでそれをアップさせていただこうと思います。

鉄道が陸上の輸送機関を独占していた頃、特に長距離の移動は国鉄の独壇場と言っても過言ではなく、特急列車は全列車、急行列車の2等車(現在のグリーン車)及び一部の急行・準急列車には指定席が設けられていました。
ただ、昭和34年頃は、未だ指定券の発行は手作業で行われていました。
回転式のテーブルに載せられた台帳を引き出して、ここに消し込んでいく方式で、聞き間違いやダブル発券と言った事例は多々あったと言われています。
キャプチャ84
交通技術昭和55年4月号の記事から引用

また、それに輪をかけていたのは、座席番号の指定方法が下記のように4つに分かれていたことも問題でした。

1)4人ボックスを一つの升に見立てて、マス単位で指定していくわけで、4人セットで販売すればよいがそうでない場合はその4人の座席で進行方向窓際に座るのは早い者勝ちと言うことになります。(オハ46形式で施行されていたらしい)
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2)各座席に1番から通し番号を付けたもので、座席の個別指定が出来る方式であり、特ロ(現在のグリーン車)並びに、殆どの旅客車、)
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3)各座席に1番から通し番号を付けているが、ボックス単位で割り振っており、座席の個別指定が出来る方式であり、現在でも使われている方式(準急加賀号の2等車(並ロと呼ばれた向い合せ式の客車)指定席で使われている方式)
昭和34年から運転を開始した週末準急で、大阪~金沢間で運転されていました。
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4)座席を建て縦(車長方向)にA・B・C・D列に分けて順番に1~番号を付けたもの。(ナハ11形式等で試行されていた)
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というように、様々な方式がありました、将来的な電算機による座席指定方式の拡充を控え(マルスの使用開始は、昭和35年1月から、特急こだまの4列車のみで開始)のマル、その方式を統一することとなりました。

基本的には、特急客車や特ロなどの一方向向けの客車の場合は、4の方式を、普通客車など4人掛けボックスシートは3の方式に統一されることとなりました。
そして、この方式による座席指定の方式は現在まで変更されることなく続いています。
キャプチャ85
キャプチャ86
ちなみに12系客車などの座席配置は、下記のようになっています。
4.png
今度列車に乗るときには、ちょっとそんなところにも気を付けてみていただくと面白いのではないでしょうか?
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みどりの窓口、よもやま話

みどりの窓口と言えば? みどりの窓口

座席マークで書かれたマークで指定券を発売するコーナーと言うことで表示がなされるようになりました。
画像は、神戸駅のみどりの窓口の案内板であり、Ticketsの他にハングル並びに、簡体字(中国語)で書かれています。個人的には、Ticketsだけで事足りると思うのですが・・・実際、中国に行った際北京空港でも「行李」「Baggage」程度の表示しかなくて、日本のように4か国語でと言うのは珍しいというか、そこまで必要あるのかといつも思ってしまいます。


さて、余談はさておき、みどりの窓口」では、列車の指定券を中心に窓口で対面販売される切符売り場であり、ICOCA、SUICA等のICカードが普及した現在ですが新幹線の切符などでよく並んでいるのを見かけます。

さて、みどりの窓口が誕生したのはいつでしょうか?


何時できたの?

制定されたのは、1965年9月24日で1965年10月1日のダイヤ改正に合わせて開設され、東京駅・大阪駅等日本全国の主要152駅(後述)と日本交通公社(現・JTB)の83か所の営業所にオンライン端末(マルス)が設置され、マルスが設置されたコーナーが「みどりの窓口」と呼ばれたそうです。

これは、切符の色の由来したと言われていますが、この時点では、みどりの窓口のシンボルマークは制定されていませんでした。

みどりの窓口の現在も使われるマークが制定されたのは、昭和42年で10月の改正までのシンボルマークをみどりの窓口に表示するようにしたと書かれています。

これによりますと、マークは制定したものの、その扱い方は各管理局に任せられていたようで、下記のように「指定券」と言う文字と併用したり、シンプルにマークだけの場合などもあったようです。

国鉄線

国鉄線 昭和42年9月号の記事から引用


222.jpg

撮影した画像から加工して、当時の国鉄「みどりの窓口」ロゴのイメージを再現してみました。


みどりの窓口は登録商標?

みどりの窓口は、JR東日本の登録商標だそうで、登録商標(日本第3116438号)になっているそうですが、何故そうなったのでしょうか?
おそらく、JR発足時には持ち株会社が認められておらず各社は個別の地域会社として誕生した際に国鉄の関連会社なども個々に遺産分けよろしく分割されました。
現在の東京メトロも元々は国鉄と東京都が保有していましたが、こうした収益性のあるものは旧国鉄(清算事業団)に残される反面、日本旅行がJR西日本の子会社となるなどの動きもありました。
JTBも当初はJR東日本の子会社と言う案もあったようですが、これを機会に独自性を獲得したいJTBの思惑もあって、独自の道を歩むことになるのですが、これはまた別の機会にお話しましょう。

そんな中で共通利用される部分の多くは、旧国鉄本社を引継いだ東日本旅客鉄道株式会社が筆頭会者と見做されたからだと思われます。
実際、国鉄時代に解説していた外国の在外事務所(ニューヨーク、パリ)等も引きついだように記憶しています。
その中で、「みどりの窓口」の商標も代表幹事会社としてその商標権を主張したのではないかと思われます。


みどりの窓口が無いJR東海

JR東海は、自動販売機で指定券を発売できることなどを理由に「みどりの窓口」と言う表現を止めて「きっぷうりば」としていますが、JR東日本に対する反発と考えるのは考えすぎでしょうか?


昭和30年代の定期券のお話

昔の定期券は、一般・通勤・学生の3種類

皆さんこんにちは、久々に更新させていただこうと思います、今では定期券と言えば大きく分けると通勤用と学生用、更に学生用は、大学生用(専門学校などを含む)・高校生用・中学生用・小学生用と分かれており小学生用は小児運賃なので別とすれば同じ大人運賃であっても、大学生と高校生、中学生で3種類の運賃があることになります。

調べてみますと昭和28年1月15日に、今まで制度として残していた、2等通勤定期を廃止して、2等・3等普通定期券と言う制度を採用したそうです。

これにより、3種類の定期券制度が出来たわけですが、それを再び2種類に戻しても良いのではないかと言う意見が掲載されていました。

ちなみに2等と言うのは今でいうグリーン車のことであり、グリーン車利用の通勤定期券と言う制度を廃止して、2等・3等の一般利用の定期券に変更したと書かれています。

参考 国鉄があった時代
国有鉄道運賃法の一部を改正する法律 法律第三百四十号(昭二七・一二・二七)

読者の提案は、定期運賃の制度を変更すべきではないかと言うもの

まぁ、聞き耳を立てて聞くと話に聴いた世間話から、問題を提起しているのですが、当時の制度を知らない私にしてみれば、こうした古い文献を探していくのは宝さがしのような感覚になるのですが、これによると、定期は普通、学生の2本立てにしても良いのではないかと言っています。

まぁ、通勤定期と言う制度を無くす実質値上げになるのですが・・・。


戦前では、工員向けの定期券と一般勤務者の定期券も値段が違うと言う政策的運賃が取られていました。(工場労働者は賃金が低いのでその分定期運賃を低廉に設定されていました。戦前の制度はまだまだ私も知らないことが多いので調査の必要があるのですが・・・。)

昭和35年6月記事

引用 国鉄線昭和35年8月号


一般定期券と通勤定期券ではその値段に差が付けられていた

当時の時刻表で昭和35年以前の時刻表では昭和31年12月号しかないのでそれを参照してみますと、確かに「普通定期」と呼ばれる項目が通勤定期とは別に掲載されています。

昭和31年12月時刻表から抜粋

普通定期運賃

普通定期運賃 7kmまで 1ヶ月600円(現在の物価で換算すれば約14倍と仮定しますと、8400円ほどでしょうか。)

通勤・学生定期

こちらは、通勤定期券、同じ7㎞の距離で計算すると、普通定期券の約半額の300円になりますので、約4,200円ほどになります。

ちなみに、大阪~京橋(営業距離6.5km)の現在の定期運賃が4,870円ですので、当時の通勤定期運賃程度の金額となります。

ちなみに、通学定期は大学生・高校生・中学生と言った区分はありません。
高校生や中学生の割引運賃が出てくるのは昭和30年代後半だと思われますのでまた機会がありましたがアップさせていただきます。

ちなみに、学生運賃は200円ですので、同じように換算してみますと、2800円程度となります。

ちなみに、現在の学生定期運賃との比較は下記の通りとなります。

  • 大学生 2,890
  • 高校生 2,600
  • 中学生 2,020
ということで、当時の学生運賃と言うのもほぼ現在の大学生(専門学校生を含む)の運賃程度であったのではないかと推測できます。

当時の通勤定期は手回り品の持込制限があった

当時の通勤定期がほぼ半額と言って言い金額だったのは、普通定期運賃には手回り品(いわゆる持込荷物)分を含めていると言う解釈であったとのことであり、逆に通勤定期ではそうした手回り品の持ち込みは制限されていたと書かれています。

こうして。古い資料などを参照していますといつも新しい発見がありますね。

これからも、更に新しい発見をしていってこうした形で皆様に紹介したいと思います。

交通公社の古い広告から

昭和二七年の国鉄線と言う時刻表の裏側の広告に、交通公社(現JTB)に案内係が登場したと大々的に広告が載っています。

ラナー・・・ランナーではなく、直訳すれば使い走り、伝令と言う意味だそうですが、現在の窓口に見られる案内係とは異なり、営業担当に相当するようで、当時の記事を見ますと、ラナーの仕事は「送迎、伝言、誘導案内、交渉、その他」ということで旅行の添乗員に営業担当の仕事が付加されたような内容だったのでしょうか。
昭和27年当時は国鉄自らが営業を行うと言ったことは考えにくく、交通公社によるこうした制度は国鉄と言う公共企業体(実質的には戦前の鉄道省と同じ感覚でしたが、収支のバランスを図り営業を行うことも多少は意識していましたので、こうした係員の存在は国鉄にとってもメリットがあったと言われています。
ラナー
昭和27年国鉄線 昭和27年1月号裏表紙から引用
出典 公益財団法人 交通協力会 電子図書館

今から考えるとなんとも時代錯誤的な制服なんですけど・・・。
まぁ、当時の感覚では最良だったのかもしれません。

車掌長制度の新設について

久々に更新させていただきます。

本日は、車掌長のお話です。
昔の鉄道雑誌等を読んでいますと、車掌長以下専務車掌・何名と荷物専務車掌が乗り組み…と言った記述をよく見かけたので、車掌長と言う制度は昔からあったと思い込んでいましたが、実は昭和48年の6月1日からこの制度が始まったそうです。

これは正直意外だったのですが、国鉄線の昭和48年9月号の記事を参照しますと。

車掌長の新設の理由について下記のように書かれています。

少し長いですが引用させていただきます。

目的

飛行機には機長がおり、船には船長があるように、列車には列車長をつくるべきであるとの主張がなされて、既に久しく、今回、全国の優等列車を対象に「車掌長」を新設することとした。
」れは近年、輸送需要の変化に伴い特急を主体とした優等列車の増発が著しく、これには通常二~三名の専務車掌が乗務しているが、これら複数の列車乗務員はいずれも同じ専務車掌であり、特に異常時等における責任体制は必ずしも明確ではなかった。
従って、今回この責任体制を確立すると同時に、対外的には、列車の最高責任者としての位置付けを明確にすることとした。

車掌長は急行以上の列車に原則的に乗務すると定められており。古参の専務車掌、専務車掌(A)と呼ばれていたグループは全員車掌長に移行し、専務車掌(B)の一部が車掌長に昇格したそうです。
また一般車掌のうち約1割がこの改正で専務車掌に変更されることとなり、優等列車の車掌は全員専務車掌以上になったそうです。
専務車掌変更

なお、車掌長の職務は従来どおり旅客の接客業務に従事しつつ、専務車掌間の業務調整や業務指導などを行うということで、プレイングマネージャー的な位置づけ出会ったと言えそうです。
専務車掌偽
専務車掌偽
プロフィール

加藤好啓

Author:加藤好啓
みなさま、こんにちは。日本国有鉄道研究家、鉄道ジャーナリスト加藤好啓です。
地方鉄道を活性化することで、地方を再生できないかと言うことで研究とともにr提言活動などもさせてもらっております。
将来は地方政治家としての転身を目指しています。

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