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新・寝台列車論 終戦直後の夜行列車事情 第3話 

簡単ではありますが、東海道線を中心とした、夜行列車の運転史をご覧いただこうと思います。

寝台列車論からは脱線していますが、流れとして知っておいていただきたいので敢えて脱線させていただきます。

決戦輸送時のダイヤ改正と、夜行列車

昭和19年の復刻版時刻表を参照しますと、開戦前に運転されていた15・16列車【名士列車】などは姿を消して、座席中心の夜行列車のみが残っています。
門司行き 5列車 東京発 20:00 門司着 21:15
広島行き(呉線経由)7列車 東京発 21:00 広島 17:00
大阪行き 103列車 東京発 22:00 大阪 9:42
以上急行列車
鳥羽行き 241列車 東京発 22:10 鳥羽 8:50
広島行き 41列車   東京発 22:40 広島 21:50
広島行き(呉線経由)東京発 23:10 広島 23:57

と言った列車が東海道線区間の夜行列車と言えそうです。
img022.jpg
当時の時刻表【復刻版】から引用

終戦と夜行列車

太平洋戦争【大東亜戦争】は、昭和20(1945)年8月15日に、日本の無条件降伏という形で終結を迎えたわけですが。
翌年の昭和21年8月の時刻表を参照しますと、不定期列車を含めて、急行列車が6本【うち2本は不定期列車】が走っており、朝に出発する、博多行き1列車は、8:30に東京を出て、博多には11:30(もちろん、翌日)で、2・3等急行となっています。
その後は、101列車【大阪行き】が9:30に東京を出発し、大阪には20:47ですので、ほぼ12時間かかっています。不定期列車がありますが、それを省略して次は夜行列車として、5列車、門司行き急行が20:00発となっています。こちらも終着門司には、21:15ですので、25時間以上かかっていることになります。
その後、不定期の7列車【大阪行き】が21:00に出発しますが、定期列車としては、103列車が2・3等急行として、東京駅を21:40に出発、大阪には翌朝9:50であり、12時間の所要時間となっています。
いずれの定期列車も寝台車などは全く連結されておらず、2・3等客車だけでした。
ちなみに、この列車が、その後戦後の名士列車と呼ばれた、13・14列車のベースとなりますので、注目しておいてください。
img020.jpg
他にも、普通列車として現在は臨時列車でしか運転されない「ながら」の前身、149列車や、鳥羽行き241列車なども注目に値するかもしれません。

石炭不足の影響で、国鉄では昭和21年から何度かに渡って列車削減を行うのですが、この辺の事情がすっきりしませんでしたので、改めて調べてみました。
寝台列車論から離れますが、出来るだけ集約して書かせていただきます。

石炭不足が起こった背景は、元々終戦後炭鉱従事者の職場離脱等で出炭量が減少、当時は国鉄以外の産業は殆ど復興していなかったため、出炭=国鉄での消費で大きな差異は生じなかったのですが、産業が復興して鉄鋼などでも多くの石炭を使用するようになると、国鉄へ納入される石炭も不足気味となり、低カロリーの泥炭なども使用されたため、規定の速度が出せずにダイヤも乱れがちであったと言われています。
そのような理由から、国鉄では昭和20年以降、石炭の入手が困難となり、特に冬期は煖房も必要となるため更に石炭の消費は増えるわけで、昭和21年末頃にには大幅な列車抑制が行われました。
昭和21年6月の復刻版を参照しますと、これでもかという程列車が削減されているのが確認できます。
再び、昭和22年6月号の復刻版時刻表を参照したいと思います。
優等列車は僅かに2本、1列車、博多行き、東京を7:40に出発、博多には翌日の12:18到着約2時間ほどスピードダウンしているのが確認できます。
18:30東京発、門司行き、到着時刻は20:10であり、こちらは出発が早くなっていますがそれでも30分ほど余分に時間がかかっているようです。
ただし、、東京駅を21:40に出発する103列車などは運転されていません。
この時期が、国鉄に限らず日本国全体で深刻な石炭不足の時代であったと言えます。
img021.jpg
そして、この頃は営業列車自体は現在と比べるも無く少ないですが、貨物列車や、時刻表に掲載されない列車(復員輸送や、第3国人(中華人民共和国・台湾・朝鮮人)の帰還事業なども併せて行われていたことも知っておいていただきたいと思います。


戦後の名士列車に関しては、次回にお話をさせていただきます。m(_ _)m
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新・寝台列車論 寝台車の始まり 第2話

戦前の寝台列車、名士列車

寝台列車のルーツは、山陽鉄道にあると前回お話をさせていただきましたが、今回は現在のクルージングトレインと言っても良いような列車のお話をさせていただこうと思います。
その列車は、東海道本線を走った、急行 17・18列車と呼ばれるもので、東京~神戸間を走っていました。
名士列車と呼ばれた列車に歴史を簡単に振り返る
名士列車と呼ばれた列車は、明治39年4月16日のダイヤ改正で誕生した、
最急行の1・2列車(後の特急富士)夜行急行列車(3・4列車)をそのルーツに辿ることができます。
同じダイヤ改正では、3等主体の5・6列車も設定されており、いずれも新橋~神戸の間に設定されています。(神戸以西は山陽鉄道
弊サイト、国鉄があった時代から引用します。
日露戦争「凱旋」ダイヤより平時ダイヤへ 4/16
  1. 東海道線新橋~神戸間1・2等「最急行」1・2列車(食堂車付、13時間40分運転)、1・2等急行3・4列車(寝台車、食堂車付)、3等急行5・6列車(和食堂車付)を設定。
    急行列車券を発売(和食堂車、急行料金のはじまり)。
    新橋~下関間 直行11・12列車(寝台食堂車付、37時間5分運転)
    新橋~神戸間2往復、新橋~大垣、静岡~神戸、名古屋~神戸間各1往復
    の長距離列車運転。
  2. 北陸線 神戸~富山間1往復
    米原~富山間3往復運転
  3. 奥羽線 福島~青森間1・2列車(16時間58分運転)
    福島~秋田
    新庄~青森間各1往復運転
(東海道本線)【移転・駅名改称】清洲(初代)→枇杷島。【信号所開設】清洲信号所 4/16
山陽鉄道ダイヤ改正 4/16
大阪~下関間「最大急行」301・322列車(食堂車付、神戸以西13時間運転)
「急行」2往復(寝台食堂車付)
京都~広島、糸崎~下関間各1往復運転
引用終わり

何故、名士列車と呼ばれたのか

名士列車、読んで字のごとくですが。

「世間に名を知られている人。著名な人。」という意味ですが、当時は現在とは比べものにならないほど階層意識が強く、それでいて。移動手段は鉄道しかありませんでしたので、勢い、列車でも賓客と庶民を分ける必要がことがありました。

こうした流れは、東海道新幹線が開業する前の特別室付き展望車【パーラーカー】まで引き継がれましたが、山陽線転出後は、パーラーカーは連日空気輸送となり、やがて開放室は2等車に改造されて、形式もクロハ181となりました。

この辺は、寝台列車のお話とは関係ないので割愛させていただきます

img014.jpg

昭和3年、復刻版時刻表から

3列車が後の「櫻」、1列車が、「富士」で3列車は、和食堂、1列車は洋食堂となっているのがご覧いただけるでしょうか


その後も、順調に発展する名士列車


名士列車は、高級軍人や政治家、大企業の経営者なども多く利用しており、いわば列車がサロンの役目を果たしていました、そして、そのサロンの中心となったのが、食堂車でした。
当時は現在のように駅構内などで食料を調達することは容易ではなかったため、急行列車の多くには、食堂車が連結されていました。
一般の急行列車では、和食堂車と呼ばれる和食が中心のメニューの列車でしたが、名士列車と呼ばれた列車では洋食堂車が連結されていました。

名士列車の特徴として、3等級制時代に、1・2等のみで編成されていたわけで、その豪華さは容易に理解していただけるのではないでしょうか。
当時の編成を調べてみますと、荷物車1両、1等寝台車3両、2等座席車1両、食堂車1両、2等寝台車5両の11両編成で、1等寝台車緩急車は、(マイネフ37230形後の マイネフ38形)は、17・18列車専用の車両であり、個室寝台車でした、2等寝台はツーリスト形と呼ばれる、マロネ37350形(後のマロネ29)と呼ばれるもので、こちらは通勤電車タイプのロングシートを夜間は引き出して使うとともに、天井に収納した上段を下ろして使うようになっていました。
なお、この列車は神戸から外国航路への連絡列車の使命も持っていたようで、要人などの利用も多かったものと推測され、名士列車という名称がつけられました。
特急「櫻」や超特急「燕」でも3等車を連結していたのに対して3等車を連結していなかったわけで、この列車の伝統は戦後、急行銀河に引き継がれることになります。
その前に、少しだけ当時の国鉄の考え方を以下に示してみたいと思います。

戦前の国鉄では個室を1等・開放室は2等

当時の方針では、個室を1等、開放式は2等車として扱うこととされていました。
皇族専用車のマイロネフ37290後の、マイロネフ38のように、プルマン式寝台を2等車として扱っていたのがその証左といえます。
戦後はマイネ41も2等寝台車の扱いにしたかったようですが、GHQとしては個室を1等車とすることは認めず、結果的に戦後の開放式寝台車も1等寝台として扱うこととなり、1等寝台車で冷房装置が設けられたマイネ40(戦前の基準ならマイロネ40?)となっていたであろ車両がマイネ40として誕生し、マイネ41も、マロネ41で誕生するところだったのでしょうが、マイネ41で誕生しています。
さらに、スロ60も国鉄ではスイ60としたかったようですが、GHQの意向でスロ60ということで2等車の扱いとなったのもご存じの通りかと思います。

当時のGHQの見解では、冷房装置(当時の表現では空気調和装置)の設置が1等・2等を分ける基準にしていたのかもしれません。
なお、この辺は今後更に新しい資料等があれば追記させていただきたいと考えております。

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新・寝台列車論 寝台車の始まり 第1話

はじめに


寝台列車というのは、魅力的に聞こえる言葉です。
かっては、ブルートレインと呼ばれた青い客車・・・現在は、定期で走る列車としてはサンライズしか残っていません。
いまも、寝台列車復活の要望は、鉄道ファンを中心に多いのですが、現状で寝台列車は復活できるのでしょうか?
寝台列車を復活させるためにといって、一生懸命行動しても、それが社会的欲求に合致したものでなければ、それはあくまでも鉄道ファンの妄想でしかないと言えそうです。
ここでは、寝台列車論としていますが、寝台車の歴史などから書き起こして、今後寝台列車【寝台車だけで編成された列車以外も含めた列車】のあり方を個人的に絞殺していきたいと思います。

寝台車の歴史


日本で最初の寝台車は、山陽鉄道
山陽鉄道をご存じであろうか、現在のJR山陽本線を構成する路線で、神戸から下関までの区間となっています。
山陽本線のことを調べていきますと、現在の鉄道サービスの基本はほとんど山陽鉄道が発祥と言えそうです。
今回の寝台車然り、食堂車も、山陽電鉄が始めたものでした。
他に変わったところでは、車掌という名称、これも山陽鉄道が最初に使用したとされています。
さて、車掌の話まで始めると本題から外れてしまいますが、こうしたサービスを最初に取り入れたのは、一つは官営に対する対抗意識があったと言えそうです。
山陽鉄道に導入された寝台車は、食堂車との合造車で、明治33(1900)年4月8日であり、このときに導入された、食堂車付き一等寝台車でした。
なお、前年の明治32(1899)年8月には、夜行列車には蚊帳を貸与したとされています。
日本最初の寝台車は、定員16人のプルマン式寝台車
山陽線における初めて導入された寝台車は、プルマン式寝台と言われるものでした。
ただし、片方だけがプルマン式と言えるタイプの2段寝台で、反対側はロングシートのようなタイプでした。
sannyourailway_sleepingcar.png
昭和47年5月 国鉄線記事から引用

弊サイト 国鉄があった時代を参照しますと、官鉄が寝台車を連結するのはもう少し後で、明治35年7月10日に寝台車・食堂車に扇風機を取り付けとありますので、この頃にであったと思われます。
 東海道線寝台車および食堂車に電気扇を装置 7/10

又、翌年、明治36年には、山陽鉄道で二等寝台車の連結が開始されたと書かれています。
東海道線時刻改正 1/20
新橋~神戸間「急行」列車の運転時間を約1時間30分短縮し、1・2列車
(食堂車付)を15時間、3・4列車(寝台車、食堂車付)を1・2等編成の15時間20分運転
直行列車を3往復とする
新橋~大垣、新橋~名古屋、新橋~浜松、新橋~静岡、静岡~神戸、浜松~神戸、名古屋~神戸間各1往復の長距離列車を運転
山陽鉄道時刻改正 1/20
京都~下関間「最大急行」305・318列車(食堂車付、神戸以西下り11時間30分、上り11時間20分運転)
「急行」(寝台食堂車付)3往復、大阪~糸崎間下り2本上り1本
広島~大阪間上り1本、広島~下関間1往復の長距離列車を運転

ただし、寝台車はまだまだ高級な車両であり、一般庶民は堅い座席で夜を明かさなくてはなりませんでした。
ちなみに、現在のB寝台車と呼ばれる三等寝台が誕生するのは、昭和6(1931)年まで待たねばなりませんでした。
再び弊サイトから引用させていただこうと思います。
東海道線東京~神戸間急行13・14・19・20列車に3等寝台車を連結(3等寝台車のはじめ) 2/1
三等寝台が連結された背景には、経済不況で収入減少を来していた国鉄が収入増とサービス向上から導入されたものでした、特急つばめ(戦前は燕)の運転開始したのも同様な理由からでした。
ただし、庶民向けの三等寝台車は、俗に蚕棚と呼ばれた3段式で、かつ52cm幅の寝台は、当時の日本人でも窮屈という声がありました。

それでも、少しでも足を伸ばして横になれることはサービス向上であるとして喜ばれたそうです。
この車両は、スハネ30000【戦後は復元でスハネ30】と呼ばれたものでした。
戦前の寝台車は、通路側の一部にカーテンがあるだけですので、プライバシーは全くないと言っても過言ではありませんでした。
なお、優等車としては、皇族用のマイロネフ37290形【後の→ スイロネフ38形】や、特急富士用に製造された、マイネ37130形【後の マイネ38形】等優等車はありましたが、引き続き寝台車は戦前にあっては、庶民の乗り物とはほど遠いものでした。
なお、マイネ37130形は一両だけ、シャワー室が接地されましたが湯量が十分でなかったり、一両だけの改造であり使い勝手が悪かったこともあり、まもなく使用中止に追い込まれたようです。

このように、戦前にあっては寝台車というのは非常に限られた需要を満たすだけの存在であり、例外的に三等寝台として一部導入されたとはいえ、横になれるだけましと言った代物であり、現在のサンライズのように個室寝台などは一等寝台のみであったことを考えると隔世の感があります。

続く

次回は、戦前の優等列車、名士列車15・16列車を取り上げたいと思います。


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プロフィール

加藤好啓(blackcat)

Author:加藤好啓(blackcat)
みなさま、こんにちは。日本国有鉄道研究家、鉄道ジャーナリスト加藤好啓です。
地方鉄道を活性化することで、地方を再生できないかと言うことで研究とともに提言活動などもさせてもらっております。
将来は地方政治家としての転身を目指しています。

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