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新・寝台列車論 戦後の夜行列車、銀河誕生 第4話 

終戦後に復活した、名士列車

昭和24年9月のダイヤ改正で誕生したようです。
このとき三往復の夜行列車が、東京~大阪間に誕生していますが、そのうち、15・16列車は戦前の17・18列車を彷彿させる、1・2等のみの6両編成であり、銀河の愛称が与えられ、列車の最後尾には、銀河のテールサインまで掲げられていたそうです。
銀河
昭和24年9月15日の時刻改正時の編成
銀河2
運転開始当初最後尾に掲げられたと言われる幻の行灯式テールサイン、
(鉄道ジャーナル昭和49年7月号から引用)
このときに連結された寝台車がマイネ40でした。

マイネ40はどんな寝台車?

マイネ40が誕生したのは、昭和23年なのですが、この車両の誕生までの経緯は色々あったようで、当初、GHQが昭和21年に寝台車を40両作れと言って指示したのが始まりだそうです、その後命令の撤回と再開が繰り返され、車両会社ではスローダウンしながら作業したものの昭和22年には22両が出来上がってしまい、外国人観光客向けの車両とし、余裕があれば日本人も乗車できる車両という名目で、やっとGHQから購入許可が下り他という経緯があったそうです。
日本人も乗車できるようにと制作した、・・・といった記述をしている資料もあるようですが、星氏の回想によれば、GHQ内での意見統一が出来ていなかったことが一番の原因と言えそうです。
車両の特長は、三部屋を区分室(2段式寝台個室)とし、中間に喫煙室を設けて、後半分は、開放式寝台(プルマン式)と呼ばれる車両で、空気調和装置(いわゆるクーラー)を夏場は設置することとされていました。(オフシーズンは、空気調和装置を外すことで、自重の軽減・動力費の節減)等、を図っていました。
現車は、JR東海のリニア館に復元されたマイネ40(マイネ40-7)が保存されていますので、興味のある方はのぞいてみてはいかがでしょうか?
img031.jpg
マイネ40外観
img029.jpg
区分室室内、製造当初は外国人観光客向けということで、カーテンに西陣織を充てるなどその豪華さは目を見張るものがあったそうです。
2枚とも、回想の旅客車から引用


銀河は3等車が連結された普通の列車に

しかし、この計画は上手くいきませんでした。
連日の空気輸送に、さすがに運輸省(当時は国鉄は誕生していません)としても、是正を図る必要があるとして、この豪華編成は、改正から9日後、9月24日からは、1等寝台車2両、2等座席車3両、3等車を8両+荷物車の1・2・3等急行となり、同時期に誕生した13・14列車や17・18列車と遜色ない編成となってしまいました。
下図は、昭和25年10月の時刻表(復刻版)から引用したものです。
イネ・・・1等寝台車(マイネ40)
ロネ・・・2等寝台車(マロネ39)
ロ・・・・2等座席車(スロ60)(うち1両は並ロと呼ばれた車両のようです)
ハ・・・・3等座席車
と言った按配でした。
銀河4

マロネ39に関しては、下記も参考にご覧ください。
国鉄旅客輸送今昔 87 1等寝台車があった頃 C寝台という選択
ちなみに、銀河以外の11・15列車(下りのみで表示)等に愛称が付けられるのは、昭和25年11月からでした。
銀河3
同じく、昭和25年10月時刻表の抜粋
11列車の1時間後、15列車の2時間前に出発、翌朝の7:32に大阪駅に到着する理想的なダイヤでした。

名門の誉れ、急行銀河

「銀河」以外は、列車の愛称名がないことに注目してください、急行列車にも愛称が付けられるようになるのは、昭和25年11月からであり、10月の改正には間に合いませんでした。

当時の国鉄における夜行列車(寝台列車は殆ど誕生していない)の愛称は気象や天文現象などを、昼行急行には、旧国名等という方向性が示され、11・12列車は明星、15・16列車は彗星の愛称が設けられました。
到着が比較的早い、11列車は、「宵の明星」と言う意味合いで、明星の愛称が、更に深更の時間帯を走る15列車には「彗星」という愛称を与えたのは列車の性格からしても上手く表現されていたように思われます。
なお、編成に関してはこの後、彗星と銀河は設備の面で、良き競争者となりサービス合戦を行うことになるのですが、直接寝台車論のお話からは外れますので割愛させていただきます。
なお、詳細は別のblogでお話をさせていただきます。
こうして、昭和25年以降、東海道区間には三往復の夜行列車が走ることとなりました。
ちなみに、昼行列車は、東京~大阪間は特急「つばめ・はと」の他は、熊本行き急行・鹿児島行急行、長崎行き急行が運転されており、これらの列車が、東海同区間における昼行列車として機能していました。
img030.jpg
昼間の列車時刻 昭和25年10月時刻表(復刻版から引用)

ここで注目されるべきは、特急列車以外の昼行列車は全て、九州直通列車であると言うこと、また、夜間帯にあっては、11・13・15列車以外にも、多くの37・39・201列車と三本の列車が集中していることに注目してください。

当時の夜行列車は、時間を有効に使うために必要な列車

当時は、飛行機も現在と比べらると非常に輸送力は小さく、高速道路もないため、自ずと国内の移動は列車しか無かったわけです。それ故、上級国民ではありませんが、富裕層と庶民をも混在して列車に乗車することとなるわけで、必然的に優等車の比率も現在とは比べものにならないほど多かったと言うことになります。
そして、片道7時間以上かかるとなると、夜の時間帯に移動できればより効率的有るとして、東京~大阪間なども夜行列車が昼間の列車以上に設定されたと言えるわけです。

これは、有効時間帯を上手く使うために、こうした列車の需要がかなり有ったと言うことになります。
当時は、飛行機も昭和26年に日本航空株式会社が半官半民という形で設立されましたが、輸送力は小さく、多くの旅行者は鉄道を頼るしか有りませんでした。
当時の列車に、2等車の比率が高いのも、そうした理由からでした。

次回は、特急あさかぜの誕生について書かせていただきます。

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加藤好啓(blackcat)

Author:加藤好啓(blackcat)
みなさま、こんにちは。日本国有鉄道研究家、鉄道ジャーナリスト加藤好啓です。
地方鉄道を活性化することで、地方を再生できないかと言うことで研究とともに提言活動などもさせてもらっております。
将来は地方政治家としての転身を目指しています。

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