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東北本線における対北海道輸送の翳(かげ)り

増備され続ける寝台電車(サロ581誕生)

昭和42年に誕生した世界初の寝台電車は、好評を持って迎えられ、特に1m幅の下段寝台は、親子連れには好評であったと思われます。
さすがに3段では、中段の圧迫感は半端ないのですけどね。
九州地区での成功を受けた寝台電車ですが、50Hz/60Hz共用の変圧器が開発されたことから、電動車はモハネ583・582となりました。
これにより、対北海道輸送の強化を含めて、東北方面に、寝台電車が増備されることになりました。
寒冷地の東北線での利用を考慮して、耐寒耐雪設備が強化され、外観では、先頭車が警笛シャッター付になった点が特徴と言えましょう。【このとき増備されたクハネ581が、その後大挙して関西方面に移動したため、寝台定員の多いクハネ583が東北方面に残りました。】
東北線投入に際して、検討されたのは優等車の有無でした。
後述するように、昭和46年には東京対札幌の輸送力は4倍もの差を付けられるのですが、計画当当時【昭和43年頃】では、飛行機の利用もあるが定員も少なく、富裕層の1等車利用もあることから、優等車は必要と言うことで、1等車【グリーン車】が連結されることとなりました。
天井が高くて独特の雰囲気でしたが、どことなく間延びした感が有ったのは、カーテンではなく、ベネシアンブラインド【近畿車輛の特許だったかな】も多少なり巴今日しているかも知れないですね。

当時の飛行機は、定員も少なかった(100名~120名程度)ことから、長距離の利用も比較的多かったとようですが、実際に昭和43年当時で東京~札幌間には1日18往復の便が運行されていることに少し驚かされます。
運輸白書から引用
sss.png


東北本線では15両編成が検討されて、クハネ583誕生

昭和44年頃、東北本線では、寝台電車の15両化が計画されることとなりました。
このとき実は問題になったのは、電動発電機の容量で、クハネ581の160KVAでは、十分な容量が取れないこと、東北線の輸送需要が活発なことから、電動発電機を床下に、コンプレッサを助手席下に再配置し、運転台後ろに機械室を客室に転用した車両が開発され、クハネ583という新たな形式も起こされました。
定員の増加はありがたく、東北地区のクハネ581は九州地区に転属と言う措置が取られることとなりました。

1280px-Kuhane583-8.jpg
画像 wikipedia
ただ、15両編成は幻に終わることになりました。
と言うのも、北海道(千歳空港)と東京(羽田空港)間は、1時間20分で結ばれることとなり、昭和46年には旅客数が252万人(国鉄は65万人)と圧倒されてしまうこと画素の原因でした。


対北海道への輸送は昭和46年には飛行機が圧倒

また、北海道内の移動でも、昭和30年代後半には、飛行機の台頭があり、鉄道に対する強力なライバルとなっていました。
昭和37年の国鉄線という部内向け雑誌の「座談会・開発業務の現状と今後の諸問題」という記事の中で、夏季のような記述が見られます。
飛行機に一等旅客を取れらそうな勢いであると・・・
飛行機ですが、北海道には北日本航空という会社があって、釧路、函館、阿寒に路線を持っております。このうち釧路線は飛行場が整備されていないで、天候がちょっとでも悪いと離着陸できないために儲かっていないようです。しかし函館線は伸びておりまして、北海道の一等客はほとんど飛行機にさらわれそうな形勢です。その原因を当ってみると、こっちは運賃が2260円に刻し向うは2500円で、12月1日から3月31日までは復路を三割引するというのです。そういうことからお客を取られているわけです。(原文まま)
既に、昭和37年頃から、旅客の飛行機への転移は始まっていたことが伺えます。
そして、昭和45年の万国博覧会以降、可処分所得の増加と相まって飛行機の利用も加速し、前述の通り、対北海道に関してのシェアは昭和46年には4倍近くも引き離されてしまったことになります。
ここに、北海道へのメインルートは既に鉄道では無く、飛行機に委ねられつつあったと言わねばなりません。

その後、国鉄の大幅な運賃値上げなどで国鉄離れは深刻化し、東京対北海道に関しては飛行機が一般的となり、列車の利用はそのシェアを限りなく落としていくこととなりました。


利用者は、より速い乗り物、より快適な乗り物を選択するということ

ここで注目しなくてはいけないことは、交通手段というのは所要時間が短ければ多少高くとも選択されるということです。
前述の北海道の函館~札幌間の飛行機の例は、それを語っています。
国鉄が当時既に脅威に感じているわけです。
いくら国鉄が陸上輸送の王者であるとしても既に長距離にあっては飛行機という存在は無視できなくなっていたわけです。
現在でも対東京と言う視点では、新幹線では、東京~広島が鉄道が優位になる限界点で有り、それ以上になると飛行機が有利になってきます。
東北であれば、やはり青森が新幹線有利と言えそうです。
15時間も20時間近くも列車に乗って移動するのは、現在の時流では乗ることを目的とした列車でないとその存在意義は少なかろうという話になります。
最も、寝台列車の場合は7時間程度は睡眠時間として考えればその分は所要時間として考慮しなくても良いとすれば、15時間では実質8時間程度【前後4時間程度】であり、これでも長いと感じるのではないでしょうか。
そう考えていくと、現在の寝台列車もしくは夜行座席列車が生き残る条件は
  • 飛行機の最終便よりも遅く出発
  • 飛行機の初発便よりも早く到着
この2点が守れることが絶対条件と言えそうですね

続く

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世界初の寝台電車誕生

高度経済成長と鉄道輸送

昭和30年代から始まった高度経済成長は、公害問題という社会的問題を抱えながらも急激に発展していきました、国民の所得は増加し、自家用車の保有率も増加し、全体の交通量も増えていきました。
それに伴い、交通戦争と呼ばれるほど交通事故による死者も増加し、毎年最悪ベースを更新するというあまり好ましくない状況が続いていました。
下図は、昭和昭和52年度の運輸白書から引用したもの。
fig2-1-25.gif
昭和50年の値上げの影響で昭和50年度以降減少傾向に入った国鉄と、自家用車の普及で衰退しているバス事業を除けば、全体のパイが広がっていたことも理解していただけると思います。
今回は、寝台電車が誕生した当時の話ですので、特に昭和42年ころに注目していただこうと思います。
下記は、昭和55年の運輸白書なのですが、昭和50年以降は急激に国鉄の輸送量は減少しますが、昭和40年から45年ころまでの旅客輸送量は大きく右肩上がりになっているのが理解いただけるかと思います。
fig2-2-1.gif
この、輸送需要が旺盛な時期に、世界初の寝台電車が誕生しました。
すなわち、昼間目的地まで走って、そこで滞泊するのではなく、そのまま夜行列車で返る。
その後、再び昼の列車で下る。
これにより、列車の有効活用を図れるということで、計画されることになりました。
単純計算すれば、夜行列車に2本の編成、昼行列車に2本の編成が必要になるものの、寝台・昼行兼用電車であれば、2本だけで済むこととなり、これに予備を入れても3本でよく、さらに、待機させる留置線も少なくて済みます。

元々は急行用で計画された寝台電車

星氏の回想記などで読まれた方も多いかと思いますが、部内で当初検討されたのは急行列車としてうんようすることであり、交直流電車なのでパンタグラフの部分は低屋根にせざるを得ないので50人程度になるが止むをないとして計画されたそうです。
イメージ的には、前頭部は153系、側面は10系寝台を合体させたようなイメージでしょうか。
しかし、実際にダイヤを想定して検討していくと、急行列車では折り返しの整備時間がとれないこと、が判明したため、改めて特急で検討することとなったそうです。
特急で夜間だけならまだしも、昼間も使うとなると2等寝台の設備というわけにもいかず、検討した結果、開放A寝台(当時は1等B寝台)を3段化して定員を確保するとともに、向かい合わせで特急らしくないと言われそうですが、寝台特急のA寝台(1等開放B寝台)並みの設備ということで押し切る形となりました。
キャプチャ
結果的には、昼間の定員が最も多い車両で座席定員60人、寝台定員45人と大幅に減ることになりました。パンタグラフがある車両にあっては、低屋根部分は2段寝台になる上、クーラーを床上に置くことから、寝台定員は36人と非常に少なくなってしまいました。当時のA開放寝台(1等開放B寝台)は定員28人
この辺は国鉄も思い切ったと思うのですが、定員が減少する分に関しては、電車寝台料金という新しい料金を設定するとともに、サービス向上策として、A寝台車並みに浴衣のサービスが行われることになりました。

画期的だったサービスと不評だった昼間の運行

世界初の寝台特急電車は、新大阪~博多間の月光と、新大阪~大分間のみどりに運用されました。
昼も夜も折り返し使うというよりもかなりゆったりとした運用が組まれており、
新大阪 23:30→博多   9:20    博多 19:45→新大阪    5:45
新大阪   9:30→大分 19:35 泊  大分   9:30→新大阪  19:47 23:30の月光で折り返し
配置区は南福岡電車区でしたので、月光で戻ってきた時に、整備する時間に充てていたわけです。
当初は、2等寝台車が従来の2等寝台と比べて大幅にグレードアップしたので1等寝台の連結は見送られたのですが、東北特急での運用で、1等車は必要と言うことで、リクライニングシートを開放式A寝台に変換できないか試作も行ったようですが、上手くいかず1等座席車として昼間も夜間も運用されることとなったようです。
1280px-JNR583seat.jpg
画像 wikipedia
特急としては、役不足の向かい合わせ座席
1280px-West_Japan_Railway_Company(JR_WEST)_Night_Train_Express_KITAGUNI_4.jpg
画像 wikipedia JR発足後にリニューアルされている。

JR発足後、JR西日本がきたぐに用に、モハネ583を改造して、2段寝台化を行いましたが、国鉄時代にはついにA寝台は誕生することはありませんでした。

新幹線連絡を意識して考えられた塗り分け

583系電車は寝台列車としてのイメージとともに、新幹線連絡という意識付けがなされていたため、先頭車の運転席は0系新幹線をイメージできる、角張った窓となり、また塗り分けも新幹線を意識して、昼行特急の赤帯に対して青帯【青15号と呼ばれる20系客車と同じ色】で、なおかつ青色の範囲を大きくすることで、夜行列車のイメージをつけたとも言われています。
クリーム色も若干白っぽい色に変更されています。
結果的に、その後の昼行特急電車もボンネットに変えて、このスタイルが踏襲されることとなったのは、皆様もご存じのとおりです。
JNR_EC_TNc581_side_view.png
画像 wikipedia

新幹線連絡の列車として誕生した背景は?

当時は、飛行機の利用は一般的ではなく、現在のようにテレビ会議システムのようなものも充実していませんでしたので、長距離出張などには寝台列車の需要は現在以上に多くありました。
特に、対九州の場合新幹線で新大阪までショートカットすれば、単純に4時間捻出することができます。
東京を20:00に出発すれば23:10新大阪に到着しますので、それを受けて月光は出発、翌朝9:10には博多に到着しますので、博多での会議に間に合う計算となります。
同様に、新大阪に5:45に到着する寝台電車は、6:00始発の新幹線に接続し、9:10には、東京に到着することができるため、ビジネスには十分需要のある列車で有ったと言えます。
実は、現在でも、寝台列車を活かすとすればこの方法が活きてくることになります。
すなわち、新大阪で最終ののぞみを受けて、新大阪から博多・熊本・広島等に出発する夜行列車という構図です。
飛行機の最終便より遅く出発し、飛行機の初発便より先に到着する列車で有れば、移動費を節約したい人たちには十分な潜在需要を引き出せる可能性があるのではないでしょうか。
寝台列車に固執してしまうと、本来の潜在的な需要すらも見落としてしまう事にも留意する必要があるのではないでしょうか。

続く

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新幹線開業後の東海道線を中心とした寝台列車

新幹線開業後の夜行列車


東海道新幹線は開業前は、世界三大バカと揶揄された(ピラミッド・万里の長城・戦艦大和)に並ぶものだと言われていました。

実際には開業直後こそ、少し多めに残した在来線の列車でしたが、やがて、夜行列車もその性格を変えるとともに。昼行列車も廃止されることとなりました。昭和40年10月の改正では、新幹線開業後も残されていた4本の昼行(電車)急行のうち2往復が廃止され、新幹線シフトが進んだことが伺えます。
新幹線は開業当時の一時間に一本ずつから、ひかり・こだまとも30分ヘッドになっています。
ただし、10月一杯は、ひかり号は四時間運転であり、3時間10分運転となるのは、一ヶ月後の11月からでした。

なお、このときに急行銀河に関しては大きな転機が訪れます。
昭和40年10月改正の列車本数を比較しますと

昭和39年10月1日改正

特急列車は、以下の通り
さくら、みずほ、あさかぜ・はやぶさ、富士 
急行列車は、以下の通り
出雲、那智、さぬき、能登、安芸、銀河、瀬戸、はりま、明星、金星、月光、第2いこま大和・
準急列車 東海6号
普通  145列車 大阪行

赤文字・・・廃止列車
灰色背景・・列車統合

昭和40年10月1日改正

特急列車は、以下の通り
さくら、みずほ、はやぶさ、富士、あさかぜ 
急行列車は、以下の通り
さぬき、出雲、安芸、那智・伊勢、瀬戸、明星、能登大和、銀河
普通  145列車 大阪行


と言うことで、寝台列車に関しても縮小されたことが伺えます。
そして、この改正で銀河はその性格を大きく変えることになります。

銀河という名称は、戦前の名士列車の流れをくむ正当な列車で有ったにもかかわらず、この時期は不遇で、急行銀河は寝台中心の編成を外され、座席車主体の列車となり、運転区間も姫路まで延長される事となりました。
img026.jpg
姫路行きとなり、運転時刻も20:30から22:40とかなり遅い時間帯に変更されています。
そして、当時の編成は下記の用に座席主体に置き換えられます。
参考:昭和40年10月改正時刻表から
img027.jpg

参考:昭和40年7月時刻表から
img025.jpg
銀河が寝台専用列車を外されて輸送力列車になったのかという疑問が出てきます。
それは、夜行急行列車の削減にその答えを求めることができそうです。
改正前には13本有った東海道夜行急行が一気に、8本と約半分に減ってしまったわけです。
廃止された列車は、「はりま」、「金星」、「月光」、「第2いこま」、「東海6号」であり、これら利用者の受け皿として、急行銀河をしんがりに持ってきて、その上で輸送力列車化したと考えるのが素直なようです。
当時の編成を見てみますと、開放式寝台2両、2等寝台3両以外は、座席車8両と荷物車を加えた、12両編成でした。
国鉄としては、銀河の名称を残したいが故に、このような不本意とも言える列車にしたのかも知れません。

新幹線へのシフトは進み、昭和42年には、再び寝台専用列車化

新幹線は順調に利用を伸ばし、国民の所得も向上する中で新幹線シフトがす進み、昭和42年のダイヤ改正では再び寝台列車に返り咲いていますが、これは新幹線のへの転移が更に進んだ結果で有り、良質な寝台での夜行の旅を提供できる余裕が出てきたと考えられます。
img028.jpg
昭和42年10月時刻表から 寝台ABとなっていますので、マロネ40を連結していたことが確認できます。
なお、世界初の寝台特急電車のお話は次回にさせていいただきます。


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新幹線開業前後と寝台列車

今回は、新幹線開業と夜行列車という観点から見ていこうと思います。
新幹線の開業は、1964(昭和39)年10月1日でした。

当時の新幹線の位置づけは、東海道本線別線による線増(いってみれば、一般国道のバイパスが出来たみたいなイメージでした)
新幹線列車も1時間に1本、「こだま」と「ひかり」が走るダイヤであり、「ひかり
4時間、「こだま」5時間でスタートしたのは皆様よくご存じだと思います。

当時の時刻表を参考に比較してみたいと思います。
その前段の条件として、夕方以降(16:00以降)出発する列車のみを抽出して比較してみたいと思います。
幸い、昭和39年は4月号と10月号がありますので、この二冊で比較してみたいと思います。

寝台列車・夜行列車
東京始発 特急4本  急行 20本【うち2本は併結列車】、準急1本、普通1本
特急列車は、以下の通り
さくら・みずほ・あさかぜ・はやぶさ
急行列車は、以下の通り
第2宮島、出雲、伊勢・那智、はりま、能登、安芸、銀河、すばる、瀬戸、明星、第2いこま、筑紫・ぶんご、彗星、あかつき、月光、金星、第2せっつ、大和
準急列車 東海7号
普通  145列車 大阪行
でした。
img103.jpg
img104.jpg

夜行時間帯に、急行列車だけで20本というのはかなりの本数だと言えます。
さらに、年々所得も向上し、寝台車の需要は旺盛であり、夜行座席列車もあるものの、寝台専用列車も増えていきました。
img112.jpg
併せて、大阪発の寝台列車・夜行列車も見ていきたいと思います。
【桜島】【霧島】【雲仙・西海】【高千穂】は東京始発の昼行急行ですが大阪から夜行区間となります、それを含めて。純粋に関西始発の列車を見てみますと、

特急列車は無く、急行列車のみとなります。
日向、ひのくに、玄海、はやとも(臨時列車)、天草、平戸、第2日向(季節列車)阿蘇(名古屋始発)、第2玄海、音戸、ななうら、と季節・臨時列車を含めれば11本+4本の15本の夜行列車が走っていることになります。

さて、これが新幹線開業後の昭和39年10月ではどのように変化するのでしょうか。
今度は、昭和39年10月の時刻表を参照してみたいと思います。

寝台列車・夜行列車
東京始発 特急5本 急行 14本【うち1本は併結列車】、準急1本、普通1本
特急列車は、以下の通り
さくら・みずほ・あさかぜ・はやぶさ、富士 
急行列車は、以下の通り
出雲、那智、さぬき、能登、安芸、銀河、瀬戸、はりま、明星、金星、月光、第2いこま、大和・伊勢
準急列車 東海6号
普通  145列車 大阪行
img104.jpg

img106.jpg
赤文字は、今回新設された列車
それでは同じように比較のために、大阪の場合も確認してみたいと思います。
大阪始発の特急列車は無く、急行列車のみとなります。
東京からの列車としては、【霧島】【雲仙・西海】【高千穂】のみとなり。、「桜島」は、大阪始発ですが、10月の時刻表では運休中となっています。
img108.jpg

img109.jpg
関西始発の列車を見てみますと、日向、ひのくに、玄海、はやとも(臨時列車)、天草、平戸、第2日向(季節列車)阿蘇(名古屋始発)、第2玄海、音戸、ななうら、と季節・臨時列車を含めれば11本+3本の14本の夜行列車が走っていることになります。

こうして比較してみますと、山陽区間は直接新幹線の影響を受けないことから列車本数が影響を受けたわけではなく、僅かに桜島の廃止だけでした。
また、東京始発の夜行(寝台)列車にあっても、九州特急として「富士」が増発され、四国連絡として、「さぬき」が新設されています。
「さぬき」は、新幹線開業で廃止になった「彗星」の編成を転用したもので、オシ16形食堂車が連結された列車でした。
彗星時代と異なり、運転区間が伸びたため、営業時間は多少なりとも伸びたので収益は改善されたのではないでしょうか。
逆に東京~大阪を結ぶ列車は6本一気に削減されていますが
また、東京始発の夜間に出発する列車は2本程度増加しています。
当時の国鉄では、昼行の特急利用者は新幹線に移行するものと予測されるものの、夜間の移動はそれほど転移しないものと予測されたため、彗星を廃止する代わりに、「さぬき」として運転区管を延長【大阪→宇野】まで延長するとともに、「瀬戸」の救済列車となりました。
さらに、「みずほ」編成を独立させる形で、特急「富士」が誕生しています。

img113.jpg
昭和39年4月の編成
img111.jpg
昭和39年10月改正で誕生した、特急富士
みずほの、大分編成を分離する形で誕生、みずほの付属編成は博多回転【東京~博多間】となり、東京~博多間の輸送力が増強されることとなりました。

この当時では、東京~大阪でさえも7時間程度かかること。飛行機の利用が一般的でなかったこと、さらには飛行機の輸送力自体も小さかったことから、輸送の主力は鉄道であり、特に夜間に運行される列車の指向は強くかったこと、更に経済の発展で可処分所得が増加したことで寝台車の利用者も増えたことから、列車自体は量よりも質を求める傾向がでてきました。
それが、新幹線開業後の「富士」の増発【みずほの付属編成を独立した列車として、富士として独立】でした。

東京~大阪に限ってみれば、夜間帯に6本削減されたのは、当時新幹線への転移がどれ程進むか予測できなかったことから、少し多めに残したようです。
ただし、実際には開業一年目の結果では、夜行列車から新幹線へのシフトはさほど多くなく、むしろ需要の誘発効果が大きかったと記されています。
キャプチャ

昭和40年6月号国鉄線の記事から抜粋
調査の結果、新幹線の開通は東海道地区の沿線拠点都市間の交通量に大幅な増加をもたらしていることがわかった。しかし、夜行列車や遠距離直通列車からの転移は予想よりも少なく、この種の列車に対する旅客の需要にどう対処するかが大きな問題であることが明らかにされた
そうした意味では、新幹線が走っている地域でも適切な運転時間帯であれば、引き続き寝台列車などは競争力を持ち得ると仮定することが出来そうです。
この辺は、次回以降に掘り下げて検証してみたいと思います。


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新寝台列車論 夜を彩る東海道の夜行列車たち 昭和34年~38年

気がつけば1か月以上放置状態でしたので、改めて書かせていただきます。

さて、前回は20系客車誕生の頃のお話をさせていただきましたが、この20系客車は、基本設計がしっかりしていたこともあり、寝台電車が誕生した昭和42年以降も増備が続けられ、最終は、「あけぼの」用に昭和45年に製造されています。
その後、12系客車の分散電源方式を応用した、14系寝台車が製造されることになるのですが、その翌年、「急行きたぐに」の食堂車から出火、運悪く北陸トンネル内走行中であり、当時の規程に基づきトンネル内で停車したことから、多くの死傷者を出す惨事となったことから、再び分散電源方式ではなく、集中電源方式にする事となったのはご存じの方も多いかと思います。
ただし、時系列的にお話をさせていただいておりますので、今回は昭和34年~35年頃の「20系あさかぜ」以外の夜行急行列車などのお話を中心にさせていただこうと思います。

経済発展とともに増加する夜行列車

「あさかぜ」が20系に置き換えられてからは、「さちかぜ」は、「平和」に改められるとともに、運転区間を長崎まで延長したのはご存じの通りです。
その後、「平和」は20系化されて、戦前の三等特急「さくら」が命名されて、その愛称はどんどん変遷していきます。

そんな中、経済の発展に呼応して、旺盛な輸送需要は夜行列車を多数運転させることになりました。
昼間は、九州急行が東海道区間の昼行列車の役割も合わせて持っていた反面、夜間になると、東京~大阪を結ぶ多くの夜行急行列車が設定されていました。
当然と言えば当然ですが、当時は高速道路は開通しておらず、新幹線も開業していませんからその移動は自ずと鉄道に頼らざるを得ないと言う状況でした。

ここに、昭和31年~39年までの時刻表が幾つか手元にありますので、それを参照しながら東京~大阪間の列車本数の推移を見ていきたいと思います。
aaaa.png
手元にある時刻表を元に、拾ってみました。
基本的には不定期列車本数に含めず、九州方面列車には、安芸・瀬戸を含み、出雲、能登、伊勢、大和は東海道線の大阪方面向け列車の本数としてカウント、東京視点からですと、大垣止まりの東海などの準急電車も集計には入れていません。

ビジネスの需要を夜行列車が支え続けた

九州夜行と言われたこれら多くの列車は、東海道線の昼行列車の役割も果たしていましたが、その本数はさほど多いとは言えません。
その反面、夜行列車【寝台専用列車ではない】の比重が大きいことに注目していただければと思います。経済の成長とともに、東京~大阪間移動は増加していきました。
前述したように、高速道路も新幹線も無い時代ですから、当然と言えば当然でした。

当時は、これだけの夜行列車が走っていた背景には、時間を有効に使いたいという切実な思いがあったからに他なりませんでした。
今では、東京まで2時間半ほどで大阪から行けますので、日帰り出張が十分可能となりましたが、当時は7時間半を移動に費やすのは時間的にはロスであったわけで、それを避けるための手段が夜行列車であったと言うことを改めて知っていただければと思います。

新幹線開業で、多くの夜行列車は寝台専用列車化されていきますが、これも経済成長で可処分所得が増えたことと、新幹線への転移がどれ程見込めるか判らなかったことによるものでした。

夜行列車の復活を考えるのであれば、考えるべき点

夜行列車を復活させようという場合、大事なことは、目的地までの需要がどれ程有るかと言うことに尽きるかと思います。
目的地への需要が限りなく小さいと、いくら夜行列車を走らせろとか、需要はあるはずだと言われても、それは机上の空論でしかありません。

急行能登が、上越線に余力がなかったこともあり、米原経由で運転されていたという事実がありますが、元々金沢は大阪との交流もあったでしょうが、それ以上に東京とのつながりもあったからこそでしょう、金沢8:40着という絶妙のタイミングであり、金沢には20分前の8:20着で上野発の急行北陸が到着しており、対東京とのつながりは、当時は対大阪と同様に需要はあったもと言えないでしょうか。

その反面、急行伊勢・大和と言った、そうそうたる列車も走っていましたが、伊勢は、昭和36年以降は常に併結相手を探しているように、単独列車として成立させるには、需要がそこまで大きくない事がうかがえます。
もちろん、南紀観光は国鉄も非常に力を入れて、団体専用列車も投入したりしていますが、夜行列車の需要は全体としては小さいと考えられます。

さらに、注目すべきは、闇雲に寝台列車を復活させろということではなく、その列車が持つ輸送力はどれ程有るのかと言うことです。
今回取り上げた、昭和30年代は14両ほどの編成で優等車【二等寝台、座席車等】を除けば、三等寝台車も定員は54名【初期のナハネ10は60名】、普通車も80名から88名が乗車できました。
ですので、1列車辺り500人から600人以上運べたわけです、しかし、そんな詰め込みの夜行列車を鉄道ファン以外の人は望んでいるとは考えられません。
辛口な内容となっていますが、現状で定期的に走れる夜行列車というものを復活させるというのは非常に難しいと言うことです。

えちごトキめき鉄道に鳥塚氏が社長に就任し、夜行列車を走らせました。
以下、上越タウンジャーナル記事
チケットが1分で完売したと言うことで、話題性の作り方上手いなぁと改めて感心しているのですが、こうした列車は、話題性としては面白いですが、こうしたイベント的なものは、
常に新たな施策を考え、マンネリ化してしまわない工夫も必要になってくるかと思います。
夜行列車【寝台列車ではない】が新たな観光資源として発達するのであればそれは面白いと思いますが、ただ単に乗るだけが目的というのではこれも一過性のブームで終わってしまうような気がしてなりません。


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プロフィール

加藤好啓(blackcat)

Author:加藤好啓(blackcat)
みなさま、こんにちは。日本国有鉄道研究家、鉄道ジャーナリスト加藤好啓です。
地方鉄道を活性化することで、地方を再生できないかと言うことで研究とともに提言活動などもさせてもらっております。
将来は地方政治家としての転身を目指しています。

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